(童話)万華響の日々

いつもご訪問ありがとうございます、ブログ開始から大分心境も変わってきました

鬼平犯科帳の面白さ

2021-11-08 20:24:34 | 読書

池波正太郎著「鬼平犯科帳」は文春文庫から全24巻が出ている。いくつかの時代劇はテレビで見ていたが「鬼平犯科帳」も主役が何人か代わって同じ名前の作品を次々に観てきた。テレビも好いが小説を読まないと本当のところが分からない。それで図書館利用で2冊ずつ借りて読み始めた。丁度コロナ禍に巻き込まれて借りれない時期もあった。しかし、緊急事態宣言解除で図書館利用が可能となって読書を続けることができた。この「鬼平」は24巻ありつい最近全部読了できた。足掛け3年位かかった。読書は好きであったが、最近は視力が落ちて老眼鏡や拡大鏡を活用しないと読めない。そのため眼も疲れるし、読む速さは頗る遅い。それでこんなに時間がかかってしまった。

兎に角引き込まれた。コロナ禍の自粛期間を鬼平で過ごしたみたいなものだ。殆どが短編であるが、長編が最後の方に3件ぐらいある。最後となった長編「誘拐」は作者が逝去されて未完となってしまった。これは残念である。結末が分からず想像するしかない。未完となって忽ちドラマの登場人物たちが一挙に消え去ったような気がする。長谷川平蔵、妻の久栄、密偵の彦十、五郎蔵、おまさ、粂八、お熊ばあさん、佐嶋、木村忠吾、他の与力や同心、あまたの盗賊たち・・・・消えてしまった。特に最後の未完の「誘拐」では囮のおまさがどうなったのかが気になるところであった。だが江戸情緒もたっぷりと味わうことができた。今の東京がかつて江戸と呼ばれたころの風情が説明されていてよい。正当な盗賊の三カ条というのも面白い。盗みにも美しい盗み方がある。その反対の急ぎ働き。全巻を読んでよかった。


「ひねくれ一茶」田辺聖子(講談社)で読後一言

2019-12-09 20:53:50 | 読書
「ひねくれ一茶」田辺聖子(講談社)で読後一言
一茶が身近に感じられた、65歳で死ぬまで俳句道に徹し、俳句仲間を愛し、愛され、生涯に宗匠とならず、3人の妻をめとり、6人の子供を得た、だが、最後の1人をのぞき、全て幼くして亡くした、その一人さえも生まれたのは一茶の死後であったという、何たる家庭の幸に恵まれない生涯であったか、しかも、幼少にして生母に死なれ継母にはいじめられ、15歳で江戸に奉公に出なければならなかったとは、幸いなことは小さい時に俳諧と出会ったことだ、その俳風は芭蕉や蕪村とも異なり一茶独自の誰にも分かりやすく親しみやすいもの、・・・・・
この本で一茶がいかに歌仙に通じていたかが分かる、相続の苦闘も外すことができない、子供には恵まれなかったが、江戸時代の人口調査では赤子や幼児の死亡率が高く子どもが育つのは容易ではなかった、だが一茶は女房には恵まれていたのではなかっただろうか、その老いても旺盛な性欲は見事なものだったようだ,最初の妻、お菊と3番やおの夫婦生活は子供つくりに性を謳歌したようである、やおが生んだ女児やたはよく育ち、47近まで生きた、やおの子は小林家を継いだ、だが一茶はやたの誕生を見ることはできなかった


「吾輩は猫である」の連載完了に寄せて

2017-03-31 20:25:45 | 読書

夏目漱石「吾輩は猫である」の朝日新聞連載が終わった、漱石の博学ぶりが余すところなく発揮された作品、毎回の難語解説るが役立った、随所に漱石の未来を見る目が感じられる、独特の観点から権力におもねることなく自由自在な発想の展開を試みる、時として執拗と思われるほどに一つのテーマに集中して議論を続ける、読む方がくたびれる程だ、


猫が漱石か漱石が猫なのか、混沌としてくる、以前にも書いたが漱石が将来は死と言えば自殺しかなくなる、という下りがある、これは当たっている、人は死のうにも死ねない生きる辛さ、言わば生き地獄のような状態が当たり前の時代が来る、というのだ、その時には何とかして工夫を凝らして自殺するしかない、

そして漱石は猫にビールを飲む誘惑を与え酔っぱらわせ水甕に落ち、最初は生きようともがくが「もうよそう、勝手にするがいい」と生への足搔きを捨て諦め安穏のうちに死なせた、まるで漱石が酒に酔って死んで逝ったかのごとくだ、

人生は所詮このように生きる意味や死の意味を探求し続ける足掻きであり、にもかかわらず死は唐突にやってくる、だから常日頃のこころの安穏・平安こそ最後の辿り着くところといった悟りなのか、漱石に感謝


「新釈 遠野物語」井上ひさし著 騙したのはあいつだった

2012-12-23 20:55:57 | 読書

「新釈 遠野物語」井上ひさし 著
新潮社 昭和55年発行 

 柳田国男「遠野物語」に関心あるわたしは当然のこと、この井上ひさし「新釈 遠野物語」にも関心を抱いた。
短編9話が載っている。

 聞き手である「ぼく」が不思議な老人「犬伏老人」から聞いたという物語が、老人の体験談として、老人自身の謎が最後まで尾を引き、全体が、
動物に騙された話で不可解な謎めいた物語が続くのである。

 最後の第9編が終わったときに、この謎が解ける仕掛けがしてあり思わず膝をうった。

 柳田国男の「遠野物語」とは異なり、死んだ人間の霊魂が登場したり、死後の世界へさまよったりする話は避けて、動物に「騙された」話に限った構成は井上ひさし独自のものだが、そちらの話も聞きたかった。


「キネマの神様」 原田マハ著 映画好き、ブログ好きにもってこいの一冊

2012-12-22 20:38:04 | 読書

「キネマの神様」原田マハ 文芸春秋 2012年発行 
 
 本屋に立ち寄り何気なく新刊を見回していて、わたしも映画好きであるから、このタイトル「キネマの神様」に引き付けられ衝動買いしたというわけだ。

 別段に期待したわけでもなくお気楽にとばし読みできるとみていたが、読み進むうちに引き込まれあっという間に最後まで読んでしまった。なかなか話の進め方に隙がなく最後まで一気に読ませる力作であった。

映画好き、ブログ好き、名画座好きにはたまらなく嬉しい作品だ。
 
 70年間も映画館に通い続けてきた丸山郷直は80歳の今も映画好き、観た映画を日誌に記録してきた。娘の歩は会社を辞し映画雑誌社へ請われて就職した、そこで父の映画批評を会社ブログに載せる仕事を担当し、大反響を起こした。

 それはあるアメリカ人がそのブログに投稿し、郷直と批評合戦を引き起こし、多くのヒット数を獲得したのである。このブログが引き金になって、雑誌会社「映友」が建ち直り、かつ閉鎖しそうになっていた名画座をも再起させたというわけである。

 
 この本の中での映画評価の仕方がおもしろい。郷直は正直な感動屋で真っ正面から感じたまま評価する。一方アメリカ人ローズ・パッドはひねくれ屋であるから映画の陰の部分に焦点を当て、監督にとってはむしろ嫌がる闇の部分をほじくり起こすというのである。

 当然ながら映画の評価はこの表面・裏面の両面から論ずるのが良いのに決まっている。この本では両者は磁石のNとSのように引き合い、生涯の知己となった。

 我々は表に現れたものだけで満足できるだろうかという疑問が常にあり、背景に隠された別の真実を知りたいという欲求がありはしないだろうか。

 たとえば、世界で起きている事件は事実だけが報じられるが、その隠された真相を知りたいと思う人は多いはずだ。書かれた文章の行間を読むとか、墨絵の白い部分を窺うとか、人の発言の裏を読むとか、いろいろある。

 
 また他の論点として、ブログというバーチャルな世界の中でも、真の友情が育てられるという筋であるが、最後にはローズ・パッドの正体が明らかにされ現実世界の付き合いに落ち着く。

 いわば、作者はバーチャル世界では物足りなく、やはり最終的には現実世界の付き合いがないと人間の繋がりは完全なものではないという視点に立っている。わたしもブログでは本名を用いていない。本名を明かして現実の世界での付き合いができるようなところまでいきたいという気もある。


 ところで本書はシネコンと単立映画館との関係についても論議を提供している。昨今、閉鎖してゆく映画館のことがポツポツと報じられている。映画館がすべて日本全国どこへ行っても、同じような駅ビルみたいに何の変哲もないシネコン、これでは寂しい。

 またシネコンに映画館のすべてを要求するのもおかしい。なんとかバランスを保って両者が存続していってもらいたいと思う。
 また、最近思うのであるが、3D映画でなくても、2Dで安く上映してくれる映画館があってよい。片目しか見えない人もいる、その人にとって3Dは必要ないのだから。実はわたしも片目が緑内障で不自由だ、しかし、映画が好きで楽しんでいる。


読書「ユゴーの不思議な発明」ブライアン・セルズニック 金原瑞人訳の印象

2012-05-01 21:04:01 | 読書

読書「ユゴーの不思議な発明」ブライアン・セルズニック 金原瑞人訳 
アスベスト文庫2012年発行 

本書は書物としては絵本の範疇に入るのである。
最近映画化されて公開された。

ジョルジュ・メリエスというマジシャンにして初期の映画製作者の人生が、ユゴー・カブレという孤児少年との出会いによって、初めは全くの不幸な出会いと思われたものが、180度の展開が起きてユゴーがジュルジュの良き後継者になるという闇から再び光の中に入る人生模様を描いたものである。

文章の中には映画というものが生まれたときには、こんな風に捉えられていたのかとうなづかされるところがある。ジュルジュ・メリエスによれば映画はマジックのこれ以上ない実現の方法であると考えられた。

映画のアイデアはマジシャンにとって自分の器用さを実現する場であった。そこで登場するのがからくり人形なのである。人形は壊れており、修復すると、人形は思いもつかない秘密を公にする。器用な修理の技術が、人形をよみがえらせ、イルージョンのようにあっと思わせる結果に観衆は驚くのである。このようなこと自身が映画で実現されているかのようである。


メリエスは夢見る力がありさえすれば、どんなことも不可能ではないことを教えてくれた。


ユゴーがいう言葉の大事な一つは、世界は一つの複雑な機械、どんな人も皆その機械の部品であり、目的を持っているというのがある。そんなことをいえば、我々の人生は機械の一部かと文句がでてきそうだが、そうではなく誰でも生まれてきたからには独特の目的を任されて生きている、それらが全て関係しあって世界という大きな一つのいのちが生きているのだと語っている。


夢見ること、希望を持つこと、これが人生を支え具体化されるということも大きなメッセージである。夢見なければ何も創造されないであろう。ユゴーやメリエスの言葉を通して訴えかける作者の主張が読者の胸を突くではないか。


読書「働かないアリに意義がある」長谷川英祐著 印象

2012-01-23 17:42:25 | 読書

読書「働かないアリに意義がある」長谷川英祐著 
      
メデイアファクトリー新書

 筆者は北海道大学教授で進化生物学の専門家である。長年にわたるアリ社会の観察研究から、アリの社会では働かないアリが7割もいることを見いだしたという。

働きアリでありながら働かずただぶらぶらして消費だけして生きているらしい。しかし、働きアリが忙殺され疲れはてた場合には、これら働かないアリが働きアリとして表にでてくるというのである。

 全ての働きアリが目前の業務に追われ、効率一点張りの社会ではなく、もしもの時に備えて働かないアリが控えているというのである。筆者はアリの世界から人間社会が見習うべき点があると主張している。

 基礎研究の必要性、一見無駄のように思える研究や仕事や機能など、短絡的にとらえてはならない。長い目で判断することが必要であると訴える。

私の考えでは、会社などでの労働を求められるところでの”働き”は、それによって賃金が払われるわけであるから、”働き”の内容もおのずから賃金に見合うもので計られる。

 しかし、人生において”働き”とは、もっと奥が深く、生きるとはどういうことかという観点からみられなければならないという視点に立つ。


読書「負けるのは美しく」 児玉 清著 その印象

2011-07-31 20:51:50 | 読書

                

読書「負けるのは美しく」 児玉 清 
  集英社文庫 2008.3.25.刊行

 児玉 清(1934-2011)のエッセイ集である。彼のいくつかの重要

な告白がエッセイとして著された。

児玉さんが切り絵作家であることは亡くなったときに知った。

”封印した青春”の章に、その経緯がある。中学生の時、姉の本箱

から「
紫苑の園」なる少女文庫を拝借し読んだところ、そのロマンチ

ックな世界にはまりこんでしまった。更に、そんな気持ちが紙粘土製

のマリオネットに魅せられ、自分でパリのお巡りさんを切り絵で作成

してみたという。当初は友人に売ったらしいが、それ以後45年も切

絵から離れていたが最近になって出版社の知人から声をかけら

れて本にして出版したものという。

 俳優の道に入ったいきさつや自転車や自動車で危険な目にあっ

思い出も語られている。この本のタイトルで児玉さんの信条「負け

のは美しく」には、児玉さんならではの俳優人生に対する一種の

悟りというか人生観がある。

 最後に、”天国へ逝った娘”なる章で、

 愛娘の死について父親の悲しみが綴られる。1999年12月24

日、娘の奈央子さんに胃ガンが発見されたとき既に末期だったとい

。彼女の誕生から幼少期の思い出が次々と回顧される。2000年

1月17日に手術が行われた、しかし、ガンが再発し2002年6月

12日に37歳の誕生日の11日前で死亡した。

 彼女の闘病生活とそれに付随した病院や医師たちとの葛藤が綴

られ、最後の思い出となるはずであったハワイ旅行が中止になった

不可思議な経緯が何とも哀れである。

 若くして死ぬ者には何か常人とは異なった天賦の才があるよう

だ。奈央子さんの場合にも彼女の鋭い霊感や図抜けた正義感を持

ち合わせていたエピソードが回顧される。

 あれから9年たった今年の5月16日に児玉清さんは娘さんと同じ

胃ガンで亡くなった。彼は娘さんの死をその後どのように受け入れ

いったのかもう聞くこともできない。だが、この書を著して愛娘の

死の経緯と父親の気持ちを顕わにしたことで、ご自分の心の解放

浄化を図っのだと思う。


読書「KAGEROU」齋藤智裕の印象

2011-02-07 17:15:11 | 読書

                  

読書「KAGEROU」齋藤智裕 ポプラ社2010年


  話題の100万部を売ったというポプラ社の受賞作ということで読んでみた。
  デパートの屋上から自殺しようとしたヤスオはすんでのところで、謎の男キョウヤに助けられる。彼は闇の臓器移植の仲介業者であった。ヤスオは臓器移植の売買契約をさせられ、社会的には疑われない死因によって命を絶たれ、その臓器は幾人かの移植を待つ人に提供(売られる)されることになった。

 そして安楽死が実行され、まず心臓が若い女性アカネに移植された。しかし、他の臓器が取り出されるまえに手術ミスによってヤスオは意識を戻すのである。

 結論からいうと、キョウヤなる人物は結局のところヤスオの脳を移植され、ヤスオはキョウヤの体を借りて生き続けることとなったのではないか。多くの臓器移植を待ち望む人々にヤスオの臓器が提供されたのかどうかは定かではない。
 フランケンシュタイン的な人造人間の生き方をテーマとしたこの作品はSFとしてみた方が良さそうである。整形医療の行く末は体の多くの部分が臓器移植によって継ぎ接ぎだらけになった人間の姿を予測しているようだ。

 レシピエント(臓器移植希望者)は日夜移植を待ち望んでいる、それは言い換えるとドナー(臓器提供者)が死ぬのを待っていることにもなる。作者はこの二律背反の矛盾を指摘する。そのためには自殺希望者を狙うのが好都合だというのが本作品の主張である。ただし、近年多発増加する自殺者を思い留めさせるだけのメッセージを発してはいないのは非常に残念である。

 我が国の最近の臓器移植の法的判断は、脳死を人の死と見なしてこの段階で臓器移植手術に移るものである。事故や病気で死ぬ人に臓器提供を生前契約してもらうか、遺族の同意によっても可能としている。

 この難しい議論を本作は避けて、ただ、
自殺志願者を見つけだし、他者に迷惑を与えずきれいな死体を残して死ぬことがいかに大事かを説き、払われた大金が遺族へ渡されるのであり、おまけにその死体が数多くの臓器移植を待つ人のためになるという人助けの貢献を教唆し、その死が無駄でなかったと諭す。こんな商売が闇の組織としてならば、実在しそうな気もする。
 
 以上のように
本作品の主要なテーマである臓器移植を待つ人のために自殺志願者に綺麗な死体の確保を依頼し、一方で、それが自殺者の最後の他人への献身と説く思想は簡単には受け入れがたいが議論を呼ぶところであろう。
 なお
、自分の身体が他者の体の一部となって生き続けるということが、自分もまた生き続けると認識することは、生まれ変わり(輪廻転生)のワンパターンと捉えられなくもないが、本作品はそこまで主張する気はないようである。


読書「猫の泉」日影丈吉 その印象

2010-12-17 20:28:17 | 読書

読書「猫の泉」日影丈吉(1908-1991)
 創元推理文庫 2005年発行 日本怪奇小説傑作集2 
 

 南フランスを旅行中であった動物や風景のカメラマンの主人公は、ある旅行者からヨンという聞いたこともない町のことを聞いた。その町にはチベット猫がたくさん居るという。そのことに興味を覚えた主人公は、その町を訪ねてみようと決心した。

 いろんな人にその町の場所を尋ねるが、なかなか分からず、やっとのことでその町に辿り着く。その町は中世の世界そのままであり、町の中央には時計塔がそびえていて小さな教会と役場らしい建物が広場を囲んでいた。

 町は全体が谷間にあり、小さな民家がいくつか存在していた。彼はそこでこの町の町長と書記とにあった。彼らは外来者に、大時計の時報を聞き、その音からこの町に関する予言を聞きだして欲しいと依頼される。
 

 時計塔ができて三百年たち、その間、外来者は主人公で三十番目だという。主人公は時計塔に登って広場を見ると、涸れたような泉があり、その周りに数匹の猫が集まっているのを発見した。何回か時計の時報を聞いたが、ただの機会音にしか聞こえなかった。

 しかし、ある日の夜ついにあるメッセージとしての言葉を聞いた気がした。その言葉は”洪水”というように聞こえた。集まっている猫は次第に増え、三十匹ぐらいにはなった。夜なので月明かりはあったが写真の撮影は無理であった。

 時計が鳴り終わると、猫たちは一斉に主人公の方を見て何かを期待しているようである。彼は時計の言葉を猫たちに語った。一匹の猫がミャオーと鳴き、一斉にその猫を先頭にして時計塔の中を登った。主人公も猫たちと共に時計塔ですごし彼は寝てしまった。朝起きると、町は水浸しとなり、一切の人影もなかった。
 

 この作品は実に幻想的である。事実か夢か、どちらとも着かない。南フランスの忘れられたような小さな町に伝承された言い伝えは、その町の運命を予言する外来者がいつか必ず訪れ、時計の時報によって解き証をなすのだという。

 町の住民は昼は人間であるが、たぶん夜はチベット猫に姿を変えて広場に集まるのであろう。時計塔とは過ぎゆく時を告げるものである。その町を救うものはよそから訪れる予言の力を持つ旅人である。猫たちは洪水を避け無事この町を脱出したようである。何とも神秘的な神話のような作品である。
 

 ともかく、猫たちはまたどこかで人間の姿に変わって生活を始めたのであろうか。
 謎が多い作品である。どうしてフランスのこの小さな町にチベット猫が集団で居るのであろうか。チベット猫とはどのような種類の猫であろうか。などなど・・・・・。
 

 とにかく、猫好きには実に興味のある作品である。


読書「その木戸を通って」山本周五郎 その印象

2010-12-13 16:52:45 | 読書

読書「その木戸を通って」山本周五郎 創元推理文庫 

2005年発行 日本怪奇小説傑作集2 

 城の会計監査役をしている平松正四郎は老職の田原権右衛門から家老の娘との見合いを薦められていた。しかるに、正四郎の家に記憶喪失をした若い娘が正四郎を訪ねてきた。

 彼にとって見たことも聞いたこともない見知らぬ娘であった。一時はこの娘を追い出そうとした正四郎であったが、押し切れず家で面倒を見ることにした。娘は自分の名前も家も過去の記憶一切を忘れていた。

 しかし、品も好く、字も旨く礼儀正しく、由緒ある家柄の家に育ったと思われる娘に正四郎は惹かれ、薦められた見合いを断って、彼娘と婚姻を結んだ。やがて、可愛い女の子も産まれ、しばらくは幸せな日々が過ぎた。

 結婚して4年が経ち子供も3歳になっていた。そんな春先のある日、妻は突然記憶を取り戻し、正四郎や家人が知らない間に、始めに来たときと同じように忽然と立ち去ってしまい、どんなに手を尽くして四方八方を捜索しても行方は全く掴めなかったという。 


 本作品は、一人の侍と彼を取り巻く人々の生きざまが、それが潔くも、人情味細やかに語られ、そのなかにこの奇怪な出来事が妖しく織り込まれている。山本周五郎という作家の魅力が実に如実に示されていたと思う。
 

 この物語には”神隠し”という恐ろしくも不可思議な伝承が主題として扱われている。 正四郎は突然訪れた謎の記憶喪失の娘に哀れを覚えて、自宅にて面倒を見る内に、情がわき、自分の出世と関わる縁談を断り、娘を妻とする。子供もできる。しかし、妻は4年ほど経って忽然と居なくなってしまう。その消え方も不可思議で、異次元への扉をくぐったかとも思われる得体の知れない行方不明である。
 

 これと似たような民話があり、「鶴の恩返し」、「雪女」、その他、蛇、蛙、などいろいろである。いずれも、人間以外のものが人間の男と情を通じ、ひとたび人間の女と化け妻となり、子供をもうけるが、夫に固く約束させたことが破られたとき、子供を残して元いた世界に帰ってしまう、というものである。

 「かぐや姫」などもその類かもしれない。竹の中にいた幼い姫は老夫婦の娘となり結婚はせず少女のままで月の世界へ天人となって帰ってしまう。
 

 これらの変化は人の目から見れば一種の”神隠し”に見えたのではなかろうか。今まで居なかったものが急にそこに現れ、ある時、忽然と再び居なくなる。異次元へ消え去ったとも思えるし、人以外の存在の姿に戻ってしまったとも思える。ある意味で、生きていたものの”死”ということも、そう考えられなくもない。

 本作品が映画化されれば反響を呼び、おもしろいのではないかと思う。