(童話)万華響の日々

いつもご訪問ありがとうございます、ブログ開始から大分心境も変わってきました

今年も咲いてくれました”帝王ダリア”

2011-11-29 20:27:50 | 花の万華鏡

11月も月末に迫ってくるこの時季、

”帝王ダリア”はわが国でも

すっかり季節を代表しても納得の花になってきました

最近はあちらこちらで見受けられるようになりました

幹の背丈が2メートルから5メートルぐらいあるので、

遠くからでもたやすく目につきやすく

大きなピンクのコスモスの花という感じです

うちにも植えてあって、毎年咲いてくれますが、

台風などの大風をどう乗り切るかが、

よい花が見られるかどうかのポイントです

今年は、あまり世話が見てやれずにいましたが、

それでもいくつかが咲いてくれて感謝です


充電式ペースメーカーへの期待

2011-11-26 21:20:46 | 病気も仕事

11月24日の朝日新聞朝刊の、科学欄にすごく喜ばしい記事が載っていました

新聞記事によれば、産業技術総合研究所関西センターで外部から皮膚を通してペースメーカーに

光を当てて発電させ、ペースメーカーの電池に充電する方法が開発されたということです

ペースメーカーは装置内部の電池で動き、心臓に規則正しい心拍を発生するように

信号を送り続けています

電池が切れればペースメーカーは動かなくなって、その人は心臓が動かず死んでしまうでしょう

それで、ペースメーカー装着者は定期的に病院へゆき、ペースメーカーのチェックをしてもらいます

それでその時点でのペースメーカーの電池寿命も見てもらいます

電池の寿命は6-7年といわれていますから、そのころになったら電池の交換が必要となります

しかし、電池はペースメーカーと一体となっているので、電池の交換には現在のところ

またもや手術で古いペースメーカーを除去して、新品のペースメーカーを植え込むという方法が

採られています

手術から退院までには数日が必要ですから、やはり嫌なものです

そこで、外部からペースメーカーの内部電池に充電できれば、これほどの好いことはないわけです

この発明が患者に採用されて実現化されるのには、まだ数年は必要でしょう

多くのペースメーカー装着者が早く恩恵にあずかるようになってほしいと切望し、

研究者や技術者の方々に製品化・実現化への早期達成を遂げてほしいものと願います


ペースメーカーはもっと電磁波に強くならないのか

2011-11-25 20:56:40 | 病気も仕事

昨日も書きましたが、手術後初めて都内へ行ってきたのですが、電車に乗っていったわけです

ペースメーカーの装着後、リハビリも大分進んだので、そろそろ電車に乗ってみようかなと、

そういう試の気分もありました

電車はもちろんラッシュアワーを避けて、先頭車両か最後尾車両を選び、列車連結部に近いところに

立ちました

空いていて空席があれば座ろうと思いましたが、あいにく空席はないので立ったわけです

昨今のスマートフォンの大流行も手伝って、列車の中は以前にも増して携帯電話を操作している人が

多いです

さすがにこういう状況の中では精神的に気分は悪くなります

なんとか事なきを得て下車できました

ラッシュアワーの混雑した電車に、やむを得ず乗らなければならないとしたらどうしたもんでしょうか

携帯電話から出る電磁波はペースメーカーの誤作動を誘発するといわれます

これは、ペースメーカー装着者にとって致命的な危険状態を起こします

携帯電話までの危険な距離は約30センチメートル以内に接近した場合だということです

携帯電話は電源が入っている限り、電磁波のやり取りをしていますから、たとえ操作していなくても

危険なことに変わりはありません

携帯電話はますます多くなってゆくでしょうから、この流れに逆らうことはもはや無理でしょう

これでは混雑して人と人が押し合いへし合うような電車などには乗れるはずもありません

ペースメーカーのメーカーにはもっと電磁波に対して防護性のある抵抗力のある構造の

ペースメーカー開発を切に求めたいと思います


「モーツアルトの顔」という展覧会

2011-11-24 21:14:23 | モーツアルトの楽しみ喜びそして感謝

いま第一生命保険本社(有楽町)のギャラリーで、

「モーツアルトの顔」という展覧会が開催中です。

その目玉は”クラヴィーアに向かうモーツアルト”というヨ-ゼフ・ランゲが描いた

有名な肖像画の原画が日本で初公開されているということです。

モーツアルトの崇拝者として、これは見逃せないと

有楽町まで行ってきました。

そして、観ました、渋い色合いの小さな絵でしたが

1789年のモーツアルトの顔がはっきりとわかりました。

モーツアルトの死亡する2年前ですから33歳であったことがわかります。

ほかにも、妻のコンスタンツエの肖像画などありました。

また、彼の自筆の楽譜の原本も見ることができました。

有名な「クラヴィーア・ソナタ トルコ行進曲」など数曲の楽譜でしたが、

端正な音符が五線紙に書かれていました。

薄暗い照明の中でじっと目を凝らして楽譜をみましたが

よく言われるように、書き直しの跡などは見つけられなかったように思います。

一気に、一回で音符を書き留めたのでしょう。

また、実に珍しい貴重な展示物がありました。

それは、モーツアルトの遺髪でした。

焦げ茶色で細くて柔らかそうな髪の毛のようにみえました。

真贋の鑑定までしてあったので本物だということです。

モーツアルトの遺髪を見たことは驚きでしたが、

やはり彼の珠玉の名曲を聴くことが

何よりモーツアルトを知る道だなと思っています。

それにしても、好い展覧会でした。

 

 


酸っぱいリンゴを守ろう

2011-11-22 20:36:29 | 日記

ラジオの放送であったのですが、わが国では酸っぱい味が嫌われる傾向があるということです。

そういえば、ミカン類でも、夏を代表する夏みかんは”甘なつ”という甘みのあるミカンが主流で

かつての酸っぱい夏ミカンは売られていません

また、リンゴ農家では酸っぱい味のものはさっぱり売れないとかで、

あの酸味の濃いリンゴ、”紅玉”もあまり売られていません

リンゴ農家では、売れないから最近は作らないのだとのことです

農家の主人は、本当は紅玉を作りたいのだと言っていました

ところで、料理やアップルパイなどでは紅玉は実に大事な食材です

紅玉リンゴを守りたいと思いますが、どうしたらいいものでしょうか


歯科受診の再開

2011-11-22 17:53:02 | 病気も仕事

歯科受診を再開しました。

退院後、リハビリなどで体力をつけたので、歯科通院ができるようになりました。

歯医者さんは近所の開業医さんですから歩いてゆけます。

久しぶりにお会いしたら、退院を喜んでいただきました。

歯のケアは大事です、口腔内を清潔に保ち、歯周病を防ぐことは

いろんな感染症に罹らないようにするのに重要です。

最近の家庭医療のテレビ番組でもそんなことが報じられていました。

早速、口内の消毒や歯石除去をしていただきました。


身体障害者手帳の交付

2011-11-21 20:38:37 | 病気も仕事

身体障害者手帳の交付を10月に市役所に申請していました。

わたしの場合は今回の手術で、ペースメーカー装着者となったので申請したわけです。

市役所から交付の案内が来たので、本日市役所へ行ってきました。

説明書類とともに障害者手帳を受け取りました。

その後、説明書類で障害者としての留意すべきことの解説をしてもらいました。

これからの生活に注意して暮らしてゆこうと思います。

 


散歩は思索に好い

2011-11-20 22:28:01 | 病気も仕事

散歩の最も大きい精神的な効用を挙げるのを忘れていました

それは、歩きながらの思索です

思索をうまくするには、散歩の速さと大いに関係があります

わたしの場合には、あまり早く歩くと、思索がうまく進みません

考え事をまとめてゆく丁度いい歩きの速さというものがあります

これはだれでも、自分の思索に合う速さがあり一般的に決めるのは困難かなと思います

座っていてはまとまらない考え事が、歩くことで自然にまとまっていく気がします

景色を楽しみながら、思索を深めて散歩から帰ると実に気持ちが爽快です


キャベツに負けずに

2011-11-17 21:38:58 | 病気も仕事

散歩していて気が付きました

キャベツも今を盛りと育っていますが、

でかい葉っぱで負けじと生育しているこの畑はなんでしょう

これはブロッコリなんです

この玉のように集まった花芽を、

サラダで食べると美味いあれですよ

今はまだあの特徴的な花芽が出てきていません

いつ出るのかと散歩のたびごとに観察しています


花を求めて散歩 菊

2011-11-15 21:46:03 | 病気も仕事

散歩の効用は、病気の回復のためのリハビリです。

自分なりにその効用をあげてみました。

まず、言わずと知れた心肺機能の強化、次に血糖値の低減、

第三に体の筋肉の強化やバランス感覚の維持、

他にも体にいいことがあると思います。

精神的には、景色を楽しみ、動植物と会い、気分が向上します。

最近は、菊の花が満開しています、菊花の展示会もいいですが、

野や畑で群生して咲いている菊花も好いものです。


楽しいネコマップ

2011-11-14 17:26:30 | 病気も仕事

リハビリ散歩にも、いくつかのコースを用意しています

そのなかでも、住宅コースの楽しみは”ネコ探し”です

歩いてゆくと、いろんなネコさんに会います

最近では、どこを歩くとどのネコさんと会えるという予想が立つようになりました

日によっては会えないネコさんもいますが、

そういう時は気になるものです

そういうわけで、わたしの頭の中には、ネコマップなるものができました

新顔に会ったときは、新しい出会いが嬉しいものです

 


三浦綾子作品ー3 「夕あり朝あり」 その印象

2011-11-10 16:43:17 | 読書三浦綾子作品

読書「夕あり朝あり」三浦綾子 1987年9月20日発行新潮社

 日本で最初のクリーニング会社「白洋舎」の創業者 五十嵐健治氏の生涯をご本人が物語る形式で書かれた伝記である。
 五十嵐健治氏は明治10年3月14日に新潟県中頸城(くびき)郡新道村の酒屋の息子として生まれた。家の事情で養子に出され、以来生みの母と育ての母の両方に熱い愛情を生涯持ち続けた。しかし、養母は若くして死んだ。

 その後彼は”天下の糸平(相場師の田中糸平)”なる一攫千金の大金持ちになることをもくろみ五十嵐家の窮乏を救いたい一心で家出を図る。一銭も金を持たずに寝泊まりした苦心が山ほどあり、そのため彼は実にいろいろな職に就いた、米穀商店の手伝い、味噌屋、旅館、宿屋等々、特に前橋の旅館住吉屋の主人(宮内文作)はキリスト教信者で孤児院や養老院を建て社会に尽くした。

 五十嵐は人にも騙された、人工肥料の販売人と組んだが欺かれ放置され人質にされたりした。新聞社の文選工も勤めた。日清戦争のときには、軍夫に応募し遼東半島まで出兵し、勝利とともに凱旋したが、戦友と共に北海道へ渡りどういう訳か江別方面の開墾地の監獄部屋に入れられてしまい、きつい土方作業につく、しかし耐えきれず脱獄し、戦友二人の命乞いをして逃がせ、自分も隙をみて逃げた。小樽まで逃げてそこで宿屋に泊めてもらった。もちろん無銭であるから、ここで働かせてもらった。

 この同宿であった中島佐一郎氏と知り合い、彼から聖書の手ほどきを受けた。そして中島氏から洗礼を受けたのである。やがて、函館に出て選択屋に勤めた。これが、後にクリーニング業を始めたきっかけになった。中島氏の紹介により、横浜に出た五十嵐はキリスト教信者の会、同信会の集会所を訪ね以後親しく会員とつきあう。更にここで岡野洗濯店に勤めた。

 彼は洗濯物の扱いで宮内省へ出入りすることになった。そこで出会った三井呉服店(その後の三越)の店員 広瀬氏と懇意になり、その縁で三井呉服店に雇ってもらう。そこでも宮内省出入りの仕事に回された。ここで高梨梅さんというキリスト信者との出会いが決定的な人生の転機となった。この姉は酒乱の男をキリスト信者へと導き、五十嵐氏に嫁さんを紹介した人であった。梅さんの親戚のぬいさんと結婚した(1901.7.6)。
 

 明治37年12月、三井呉服店が三越となった。明治39年、広瀬氏が退職するのをいい機会とし、共に辞めた。理由はキリスト教の伝道に当たりたいということであった。

 新しい事業の条件としては、三越の営業と抵触しない、日曜日の礼拝を守る、伝道の妨げにならない、三越を得意先とし生涯出入りさせていただく、人の利益となるもの、資本のかからぬもの、であった。そこで今まで経験があった洗濯屋の開業に決め、白洋舎を創業した(明治39年3月14日)、数え年30才。三越が顧客紹介など後押ししてくれた。

 知人からドライクリーニングの存在を教えられてその研究に取り組む。蔵前工業高校の吉武先生、農商務省の山口技師等に指導される。溶剤の研究でナフサ、クレオソートを扱う、資金が底をつき借金生活へ。ついに溶剤としてベンゼンにたどり着いた。ベンゼンにエーテル、食用ラードとアンモニアを化合させて添加した(ベンゼン・ソープ)。これが完成品であった。三越の専務や常務の洋服をドライクリーニングした、出来映えはよかった。

 しかし、操業中に大火災を起こして大火傷を負い、全治9ヶ月であった。瀕死の重傷は神の大きな恵みであったと彼は考えた。ベンゼンソープを発明した驕り、それ以後、安全管理に気を配り、昭和12年に家庭安全協会を設立した。周囲から事業の再開を猛反対されたが再び始めた。
名古屋支店が1910年に出きた。

 藤山寛美は実母の孫で五十嵐の甥に当たる。実母は69歳で昭和3年に死去した(脳溢血)。この母も洗礼を受けた。明治天皇は1912年(明治45年)、61歳で逝去され、この際に皇后の白襟巻きのクリーニングを預かった。そして染色で大失敗をし、襟巻き2本を1本に縫い合わせてなんとか急場をしのいだ。もし染色に失敗したら死んでお詫びするつもりであった。

 その後も、会社乗っ取り事件、工場焼失、勤務中の酒飲み流行、大震災での工場焼失、株式会社への変更。実父も大正9(1920年)年7月10日、66歳で逝去、死ぬ前にキリストの救いを信じた。第三の母であった高梨梅姉が1921年に75歳で逝去。関東大震災のとき、社員の二人の朝鮮人を外出させずにかくまった。

 工場で神社参拝の強制の危機があった。信教の自由のため反対した。昭和16年、社長を辞し(65才)、相談役に、長男が専務となった。子供は男6人、女6人であった。四女知視子は出産のときに25才で死んだ。

 東京大空襲では工場の多くが焼失したが、残った工場もあった。富ヶ谷の自宅を伝道所とした、昭和2年には改築し富ヶ谷教会とした。300人を越える人が集まった。昭和7年に300人用の講堂を工場内に作った。 昭和16年のあるとき、ある実業家が白洋舎内に伊勢神宮のお札を貼ったらとそそのかした事件。一種のふみえであり、この解決には苦労した。

 五十嵐健治氏は昭和47年4月10日、96才で聖路加病院で亡くなった。
 
 明治のキリスト教信者の骨太な一生をみた気がする。三浦綾子は本人が語る形でその生涯を書き記し、波瀾万丈の人生に常に神の守りと導きがあったことを鮮やかに浮き彫りにした。
 なによりも、五十嵐氏が危機に瀕しても、平安なときにも祈りの人であったこと、そして難局に遭っても決して嘘をつかず真っ正面から全てに当たったことが、今更のように新鮮で驚嘆させられるのである(誰にでもできることではない)。


懸崖菊に感動

2011-11-09 19:51:56 | 花の万華鏡

近くの公民館で、文化祭があったので行ってみました

その中で、恒例の菊花展もありました

見事な懸崖菊がありました

よくこんなに畳一枚ぐらいの大きさまで生育できるものです

 出展者にお聞きすると、春から秋までの半年で

ここまで大きくすることができるとか

しかも、主幹はたったの一本だそうです

展示のためとはいえ、搬送も大変でしょうなあ


初冬のゴーヤの花

2011-11-08 17:22:17 | 花の万華鏡

もう緑のカーテンの役割を終わって、ゴーヤは枯れてしまいました

まだ花のつぼみを持っていた枝を切り取って、瓶に指しておきました

そしたら、見事な大きな大輪の花を一つ咲かせてくれました

ゴーヤの実をつける力が残っていないのでしょうか、

花を大きくするのに力を出し切ったようです

まだ、次の花のつぼみが残っています

咲いてくれるでしょうかね


退院後の経過ー2 ペースメーカー、心拍は整ったが脆弱な体にもなった

2011-11-07 20:06:44 | 病気も仕事

ペースメーカーを植え込んだことで、何はともあれ最も重要な注意事項は電流や電磁波への警戒です。

病院から渡されたパンフレットには、こと細かに警戒すべき対象が列記してあります。

 かいつまんで表わせば、高周波治療器や体脂肪計などの家庭用医療治療機器、

 空港の金属探知機、トランシーバーなどの無線機、病院でのMRI、店舗にある監視(万引きなど)装

置、最近主流のIH調理器や炊飯器、携帯電話器、駅にあるカード(スイカやパスモなど)読み取り機、

磁器ネックレス、などなど使用してはならないものや、近着き過ぎることに注意すべきものがあります。

余り神経質にならなくてもいいようですが、対象によって程度が異なるのでやはり警戒心が必要です。

自動車の運転でも、リモコンキーの扱いや、稼働中のエンジンに接近しないことなどあります。

上記以外にもいろんな注意する対象があります。

 こう見ると、いかに広範囲に電流や電磁波に囲まれて暮らしているのかわかります。

 心臓の脈拍が調整され、生きてゆくうえで快適な体を保障されたのと引き換えに、

この電磁気の満ちた世界にびくびくしながら生きてゆくことになりました。

日々の体の動かし方、たとえば、ペースメーカーの部位を圧迫したり、打ち付けたり、

転倒したりしないことが大事です。

毎日の散歩でも、足元に気を付けて転んだりしないようにしています。

とにもかくにも、本当に弱い脆い体になったものだと実感します。

したがって、身体障害者1級の手帳を交付されるのも、もっともなことだと思います。

以上は普通の人間ならだれでも思うことですが、わたしは神様によって死の淵から生還させていただ

いたことを忘れません。

体の扱いには確かに慎重さを要し、脆弱な感じになったと思いますが、

新しいのちをいただいたわけで、こころにおいては、新しいいのちにより強められたと確信しています。

これからも、ペースメーカーの入ったからだを大切にしながら生きてゆきたいと思います。