「フルトヴェングラー」吉田秀和
河出書房新書 2011年発行
吉田秀和(1913ー2012年)は、東京大学仏文科卒、音楽評論家、水戸芸術館館長であった、2006年に文化勲章受章。
本書は吉田が名指揮者フルトヴェングラーの音楽と生き方を熱愛した結果の力作である。吉田は1954年にパリのオペラ座でベルリン・フィルを率いるフルトヴェングラーの演奏を聴いた。そのときの感動は生涯衰えることがなかった。
だが、フルトベングラーの演奏曲を具体的にあげて、その印象を語ることはやはり難しい、吉田にとっても然りで、本質的に感情的官能的である音楽演奏を言語で評価することは壁にぶつかってしまう。
さてフルトベングラーが大戦中にドイツに残りナチスの支配下にいたが、アメリカへ亡命した名指揮者トスカニーニとの対比が興味深い。
トスカニーニは第三帝国で指揮する者はすべてナチだと断じた。これに対してフルトベングラーは反論して、芸術は別世界のもの、芸術は政治を超越するものだという。彼はあくまでも祖国ドイツにとどまって運命を共にしたいといったという。
亡命は逃避だともいった。演奏会はナチスによって禁止されず、民衆のほとんど唯一の楽しみであったそうだ。
絵画の世界では違っていて、ドイツの画家たちは大概が国内に残って沈黙していた、描くことすら禁止されており一般の民衆と同じ生活を余儀なくされたという。吉田は、芸術家は国外に亡命できない、亡命すべきではないというフルトベングラーの思想に感動している。
終戦後フルトベングラーはナチスに協力したという批判もあったが、吉田のこの文章によればやはりフルトベングラーは超越する巨人であったと思う。
このことは我が国の茶道の巨人、千利休を思い起こさせる。秀吉から追随を迫られた利休は決然として茶道の王者として死ぬことを選んだ。
芸術を平和を守りまたはつくりだすことといい換えれば、時の暴力、狂気の専制権力に対抗する姿勢とはどんなに厳しいものか、計り知れない。
最近BSテレビで「ショコラ」という映画を観ました
チョコレートの魅力が疎外されていた人々に楽しい、幸せな心と暮らしを与えたという結論です
わたしもチョコレートが好きですが、糖尿病の気があるのでそんなに思う存分
食べられるというわけにはゆきません
そんなおり、上野の国立科学博物館でチョコレートの展覧会が開催中だというの
で行ってみました
実に不勉強で、チョコレートがどんな木の実から生まれるのかも知らなかったの
で、よい勉強になりました
カカオという南米マヤとかアステカが原産地の木の実で、
その大きさも小さなラグビーボールぐらいもあり、
その実の種から作り出すのだということを知りました
カカオの木はハイビスカスなどと同じ種類で熱帯植物です
この果実は幹から直接ぶら下がっている感じです
種を発酵させ焙煎や乾燥などを経て、ココアやチョコレートへと加工されるというこ
とです
古代南米では「王様の食べ物」といわれ大変貴重なものであったといいます
エルナン・コルテスがアステカからカカオを持ち帰ってココアやチョコレートを
ヨーロッパに弘めたということです
とにかく上流階級の食べ物でぜいたく品でありました
それが今では、わが国でも安く買えるようになったのは嬉しい限りです
それにしても、カカオの栽培はかなり微妙な大変なものらしいです
コーヒー豆と同じように大事に食料資源を守ってゆくことが求められます
いつまでもこの幸いなる食べ物を味わいたいものです
カカオの木と果実
各種カカオの果実
チョコレートで作った◇△×?ザウルス
読書「庭仕事の愉しみ」ヘルマン・ヘッセ
岡田朝雄訳 草思社文庫 2011年発行
麦わら帽子をかぶり、農作業服をまとい、背中にはカゴを背負ったヘッセの写真がある。詩人・文豪として知られたヘッセは50才を過ぎて自分の家と庭を持ち、庭いじりに没頭するようになり、それは85才で亡くなるまで続いた。
花木を育て、野菜など植え、庭仕事を日がな一日続ける日々が続いた。だが、いわゆる農夫ではなく、庭仕事をしながら哲学し瞑想したのであった。ゆったりとした暮らしがそこにある。
特に木に対する愛着が大きかった。林や森に対してはもちろんのこと、一本独立して立つ木には、孤独な人間と同じようだといって尊敬の念を抱いた。木は神聖なもの、木と話をし、傾聴することのできる人は真理を体得すると。
ヘッセは老化と共に眼や頭の痛みが酷くなるようになり、長時間の読書や著述ができなくなった。そのために心理的な気分転換が必要で庭仕事や炭焼き(焚き火)に身を入れ、同時に瞑想や想像の世界に浸り気持ちの集中を図ったという。
ヘッセによれば、世俗の国家、王朝や国民は滅亡し、明日にはもう存在しなくなることもあるが、結局、花たちが何千年も変わることなく、年ごとに草原に回帰することは反論の余地がないように、現代史の騒乱とはかかわりのない秩序がこの世に存在するのだ、そういう自然との交わりの中に身をおくこと(庭仕事)、その大きな秩序の中で絶対的な平安を得たという。
ヘッセの老年になってからの著作「人は成熟するにつれて若くなる」も、孤独な散歩者ヘッセの老年哲学を著したものだ。
そのなかで、「神の大きな庭の中で私たちはよろこんで花咲き、咲き終わろう」という文章がある。ヘッセの庭は神から与えられた庭であり、そこでの庭仕事は彼にとってやり遂げなければならなかったもう一つの仕事であったことであろう、
そして彼もまた咲き終わった、しかし、彼を思い起こし、その思想にふれ共に瞑想するものにとって、ヘッセはいつまでも共に寄り添ってくれる友人である。
すっかり、落葉してハナミズキも冬支度です
庭でひょんなものをかあちゃんが見つけました
「かあちゃん、それはなんだい
そのちいさなものは?」とハナミズキが聞きました
「あれ、あれ、おどろいた これは瓢箪ではないかえ」
「とおちゃん、いいモノ見つけたよ」と、
かあちゃんがとおちゃんにいいました
「あれまあ、ことし緑のカーテンになるかなと期待して植えた瓢箪ではないか
花は咲いたけれど、実ができたとは思わなかったよ
ご近所さんから苗をいただいて、
初めて植えたんだが、簡単には瓢箪の実はならないと
聞いていたから嬉しいなあ」
とおちゃんも驚いたり、喜んだりです
「この瓢箪、地面に落ちていたんだよ」とかあちゃんがいいました
「収穫があって好かったねえ」と、ハナミズキも喜びました
小さい小さい瓢箪の子どもです、落花生ぐらいの大きさかな
タイトル通り、「鍵」がいろんな場面で人間以上の働きをする、騙したり、騙されたり、また騙したり、この逆転に次ぐ逆転がナンセンスな内容を挟みながらテンポよく進み、最後まで飽きさせない作りがよく、喜劇として上等の部である。
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⇒「映画の真相とその隠された深層」
毎年、この季節になると
さわやかなピンクの大きな花を咲かせてくれます
帝王ダリア、または皇帝ダリア
ことしは台風などの大風を上手にかわして、
花枝が伸びてくれました
昨日も、晴れた夕方の濃い青空に三日月が輝き、
地上では帝王ダリアがくっきりと
空を背に浮かび上がっていました
12月初めまで楽しめます
「僕の心には弓矢が刺さったまま」
柳田邦男 朝日新聞夕刊10/24
朝日新聞夕刊の連載「人生の贈りもの」でノンフィクション作家の柳田邦男氏が書いている、その八回目の寄稿についてである。
氏の長男は脳炎後遺症の発作がたびたび起こるという、次男は中学時代の目の怪我から心理状態の異常が起こった、妻は心の病に苦しんでいて離婚にいたってしまった、など柳田氏の人生は家族の不幸に見回れ苦痛に満ちていた。
しかし、さらに追いうちを掛けるように次男は25才の時、自死してしまった。
その息子の生きた証を本として著したのが「犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日」や「「犠牲」への手紙」である。
氏の次男の死による苦痛と苦悩はあまりに深い、その苦痛は自分の心に突き刺さった弓矢のようであるという。
息子の死は心に弓矢として突き刺さり、いまだに抜けない、抜いたら自分が死んでしまう、ものすごく痛いけれどその痛みに耐えながら、生きなければいけない、息子が死をもって訴えたことを無視すれば、自分自身が生きている意味を失うことになる、というのである。
愛する家族、しかも自分の子供の死とその意味を、ずっと背負いながら生き続けなくてはならないという、この生き方には身に詰まされるものがある。我々は、生きることで絆がつくられるのと同じように、死によって更に強い絆が結ばれるということだ。
むしろ、死の方が生きているものと死んだものとの間に更に強い結びつきをつくり出すのだ。
それは人間同士に限定されるのではなく、動物(ペット)や花木のような植物もまた家族となるのであり、そこでは血縁関係はもはやあまり問題にされず、こころによってのみ結びつけられる大きな家族の一員であることに気づかされるのだ。
バレエやダンスとそれに伴う音楽とコーラスには魅力溢れひかれるが、決して明るい印象の作品ではなくむしろ死に向かってゆく演出家自身の死を受け容れてゆく覚悟の過程が描かれているとみたい。
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長親はおよそ武人というよりはむしろ文人であって、田楽を愛し百姓達と交わり彼らとの交遊を楽しむ武将であったようだ、それが長親と領民との一体感を築き上げていたというわけだ。
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空港脱出の際は、偽装がばれたら即刻銃殺というスリルのなか、間一髪で追いつかれるところで離陸する当たりはドキドキはらはらであってこれがフィクションではなく事実であったことに劇場で観ていて酷い衝撃を受けた。
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もう先週の水曜日のことになってしまいましたが、うちのばあちゃんの
新入れ歯の検査に1カ月ぶりに歯医者さんへ行ってきました
ありがたいことに、この1か月のあいだ、ばあちゃんの新入れ歯の調子は
悪くありませんでした
痛みもなかったし、噛みごこちも問題なかったようです
とにかく、本人は痛いと、しかめっ面をするし、入れ歯と歯茎の間の隙間に
食べかすが溜るとスースーと音を出したり、指を突っ込んで取り出そうとします
そういうふりを見て、すかさず質問するわけです
「痛いのか」、「入れ歯と歯茎に隙間があるのか」、「歯茎が痛くないか」などなど
まあ、それもあまり気にすることもない程度でした
歯医者さんも、今度は4か月たったら来てくださいとのこと、
ほとんど完成ということかなあと、安どしています
平時には贋札作りのプロなどとんでもない反社会的行為で重罪である、だが、この特殊で悲惨な歴史の中でソロヴィッチのその腕とアイデアはむしろチームの同胞を救い戦争の終結を早めるために生かされたのである。
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朝日新聞 木曜日の夕刊の「かぞくの肖像」は、愛するペットとのかぞく写真
と文章が載っています
いつも必ず読んでいますが、猫ちゃんがかぞくの時には特に愛着を持ってみています
11月1日には大塚敦子さんのかぞく写真でした
勿論かぞくは猫さんですが、これがまた感動的でした
今年の1月に福島第一原発4キロ圏以内の大熊町から来てくれたそうです
被災猫のキテイちゃんは大塚さんの里子になって「福」という名前を付けられました
10才だそうですが、右目を失明して、猫免疫不全ウイルスに感染していて、
引き取り手がいなかったところを大塚さんに引き取られたということです
愛護団体を通じて、いままで飼っていてくれたおばあさんと再会が果たせたそうです
福はおばあさんを覚えていて喜んだそうです
おばあさんは避難住宅で暮らしていて猫が飼えないので、
今後も里親よろしくということだそうです
ときどき福の里帰りをしてあげて、もとの飼い主さん家族ともご縁ができて嬉しい
とのことです
好い話です
最近、東京スカイツリーへ行ってきました
上には上りませんでした
下から見上げて撮影しました
ライトアップが薄紫色できれいでした
見上げると、首が痛くなりました
ソラマチも見てきました
もう11月ですね、いよいよ寒くなってきます