旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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十二支シリーズ⑤ ひつじ・やぎ

2010-03-04 00:20:00 | ノンジャンル
 北の大地に憧れを抱かせてくれたのは、ひとつの学校唱歌だった。昭和20年の小学校1年生は、もう5年生になっていた。作詞不詳・船橋栄吉作曲「牧場の朝」。
 “ただ一面にたちこめた 牧場の朝の霧の海 ポプラ並木のうっすりと 黒い底から勇ましく 鐘が鳴る鳴るかんかんと”
 “もう起きだした小屋小屋の あたりに高い人の声 霧につつまれあちこちに 動くひつじのいく群れの 鈴が鳴る鳴るりんりんと”
 “今さしのぼる日の影に 夢からさめた森や山 あかい光に染められた 遠い野末に牧童の 笛が鳴る鳴るぴいぴいと”
 「北海道の牧場の様子を歌っています。ポプラ並木、羊の群れ、牧童、一面の朝霧。聞きなれない、見たことのない情景ですが、これはですね・・・・」。
 受持ちの女先生は、北海道に行ったことがあるらしく、歌詞の1語1語を解説してくれた。終戦まで、那覇に生まれ育った少年は牧場を知らない。フィージャー〈山羊〉は知っていても、羊にはお目にかかったことがない。まして、その羊が群れをなしていて、それを牧童が鐘や鈴で操るなぞ、頭の中に自分なりの牧場を作り、羊を幾匹も飼って情景を想像する以外、術はなかった。あれから60年余、雪の北海道は何度も旅し、ジンギスカン料理は食しているが“牧場の朝”“ポプラ並木””ひつじの群れ”は、いまだ知らない。

 ※ひつじ【未】十二支の第8。昔の時刻「未の刻・未時」は、今の午後1時から3時。未の方角は、ほぼ南南西。
 動物の未は牛の仲間らしい。ウシ科ヒツジ属の家畜と辞書にあって、メリノー種などの毛用種のほか毛肉用種、乳用種などがいる。キリスト誕生物語には、羊飼いが主役をつとめていることからすると、羊は2000年以上前から人間の衣食を満たしてきたようだ。性質がおとなしく飼主にも従順。しかし「羊の屠殺場に赴くが如し」という慣用句があって、屠殺場に引かれて行く羊のさまから[死期が刻々と迫っている]ことのたとえ。[不幸に直面して気力も衰え、悲しみに打ちひしがれているさま]を意味している。また「羊の歩み」も、力のない歩み方をしめしていて、ものの哀れを覚えさせる言葉になっている。

 山羊はどうだろう。
 ウシ科の中形哺乳類で古くから乳、肉、毛、毛皮を目的に飼われてきて品種も多々。世界各地に分布する山羊は、草や樹葉を主食とし強健で放牧に適しているのも飼育上、人間にとってはありがたい。
 沖縄名物の「山羊料理」。多少の臭みがあることから好き、嫌いの2派に分かれる。しかし、その臭みは肉汁の場合、ソーガー〈しょうが〉やコーレーグス〈高麗薬・唐辛子〉、フーチバー〈よもぎの葉〉で消すことができるし、通になるとその独特の臭みを好み、泡盛をたらして食する。1頭つぶしてもまったく無駄がない。肉や臓物一切はもちろんのこと、血は固めた後、ネギやンジャナ〈苦菜〉ヒジキなどと炒める。これを「血いりちー」と称する。中でも珍味なのは睾丸。なにしろ雄山羊1頭から、当たり前だが2個しか取れず、かつては山羊をさばいた人のみが口にするという特権を有した。親しくしている山羊料理屋のおやじは、肉とともに睾丸を仕入れたときなぞ電話をくれる。山羊汁、山羊肉刺身を口に運ぶ合間に、ショウガ醤油で箸をつける。やわかいがコリコリした食感を楽しむうちに、みるみる[男を取り戻した]ような精気が沸いてくる。昔から「ヒィージャー グスイ〈山羊は薬〉」と言われる由縁はここにある。また、地方においては皮は防寒着や三線の張りにも使用。ツノは三線の絃を弾くバチとして現在でも重宝している。
    

 2月14日。陰暦の正月をすませた。
 このころ、基幹産業のサトウキビの収穫と製糖工場への搬入が大方終了する農家では、「WUたい直しー」と称する飲食会を持つ。寒い中、キビ刈りに従事した男たちの慰労会である。酒は泡盛、料理はこの日のために飼ってきた山羊の肉。諸々のスポーツ大会の数日前はクンチジキ〈根気付け〉という栄養会を持ち、ここでも山羊料理。大会の成績はどうであれ、勝てば祝勝会、ふるわなかったら残念会と山羊は都度、人間のスタミナ源として貢献している。
 沖縄の山羊は戦前、20万頭ほど飼育されていたそうだが、戦争で1万頭に激減。しかし、戦後すぐにアジア救済同盟・通称ララから乳用種の贈りものがあり、徐々に数を増やしてきた。メス山羊には繁殖の季節がある。秋から初冬にかけての日照が短くなる時期に発情。妊娠期間は約150日。普通、1~2頭。3頭産むこともある。
 戦争中、乳幼児を抱えた家族には、メス山羊を引き連れて山中を逃避した例もあった。幼児のための乳。いざというときの食料にするためである。いまとなっては笑いばなし風だが、家族の命をまっとうするには山羊の恩恵にすがるしかなかったとも言える。
敗戦と同時にアメリカ兵の目の色を初めて皆、驚愕し恐怖を覚えた。黒いはずの瞳が青い。まるで山羊の目だ。そこで沖縄人は、青い目の彼らを「フィージャー ミー=山羊の目」と言って恐れた。リンガンミー〈茘枝の実のような目〉とも言った。しかし、日本復帰〈1972〉まで間近でつき合い、現在なお米軍基地を有し65年も接しているうちに慣れてしまったのか、彼らに対する「フィージャーミー」「リンガンミー」なる呼称も風化して、沖縄的戦後言葉の中に納まっている。とは言うものの沖縄の今日の状況は、永田町の黒い瞳の羊飼いたちによって左へ右へ追い立てられている。
 沖縄人を「ひつじの屠殺場に赴くが如し」にしてはもらいますまい。