2011 07 17(日)
多賀城跡と陸奥総社宮の見学後、旧塩釜街道を約8分ほど走って着いたのが天下に名高い“鹽竈神社”。(塩釜・塩竈神社 重要文化財)
全東北地方の鎮護を司る鹽竈神社は”陸奥国一宮”として塩釜市の一森山に鎮座しています。
男坂と呼ばれる表参道には大きな石鳥居が・・・この石鳥居は仙台藩第四代藩主・伊達綱村が寄進したそうです。
鳥居には「陸奥国一宮」と記された青銅の扁額、大きすぎて鳥居とのバランスがいまいち・・・か。
急傾斜で知られる202段の石段の男坂を一気に登ろうとしましたが、にぶった体力では足にきて休み休みの階段登りでした。
なんとか、202段を登りきり、見上げる先には朱塗りに輝く“楼門”(随身門・随神門)です。
楼門なので仁王様ではなく、神を警護する役の弓矢を携えた随身武者がお出迎え、裏側は可愛らしい鹿の像。
くぐった楼門の先には手水舎と“唐門”、口と手を清めて参拝に向かいます。
仙台藩御用商人の大阪升屋山片重芳が大阪で作り船で運ばせ、享和3年(1803年)に寄進した御影石製の一対の長明燈(長命燈)は、東日本大震災で両方とも最上部の丸いギボシが落下し、揺れの大きさを物語っていました。
唐門脇の狛犬は漫画チックな顔つきで愛嬌があり面白いです。
唐門から拝見した鹽竈神社拝殿、日曜日の昼間なのに参拝者が少なく寂しい限り・・・。
鹽竈神社拝殿前には珍しい品々が奉納されていました。
細工が施された芸術的な素晴らしい金属製燈篭。
第九代仙台藩主・伊達周宗が蝦夷地警護役を無事に終了したことを祝い寄進した“銅鉄合製燈篭”。文化6年(1809年)
日時計は林 子平が考案し、禰宜の藤塚式部が寛政4年(1792年)に献納したもの。 デジタル時計(12時42分)と比べても正確な時を示していました。
面白い形の鉄製燈篭は1689年の「奥の細道」旅で芭蕉が鹽竈神社参拝の折、見物した“文治の燈篭”。 扉の日月は天皇の紋章でしょうか?
「奥の細道」には「・・・神前に古き燈篭あり・・・五百年来の俤(おもかげ)、今目の前に浮かびてそぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり・・・・」と記されています。
燈篭の扉に彫られた「文治三七月十日 和泉三郎忠衡敬白」から和泉氏が勇義忠孝の士で寄贈者だったのです。
入母屋流造りで端正な佇まいを見せる鹽竈神社拝殿。
樹木は県天然記念物の“多羅葉”(たらよう)の木。樹齢500余年、樹高22m。
拝殿に向かって左が右宮、右が左宮、その奥に桧皮葺の左・右宮本殿が鎮座しています。
左宮には武甕槌(たけみかづち)神、右宮には経津主(ふつぬし)神を祀っています。その二神は鹿島・香取神宮の主神でもある軍神で、蝦夷地平定の守護神なのです。(蝦夷の人達にとっては最悪の神かも・・・)
中央の奥には本殿も無く陽の当たる空間があるだけ・・・。
鹽竈神社拝殿から見て左に建つのは“別宮”。 別宮にも拝殿と左右宮の軍神を蝦夷地に道案内した塩土老翁(しおつちのおじ)神を祀っている本殿があります。
拝殿の奥に本殿が少し見えたり・・・。
鹽竈神社は左右本殿・別宮本殿とそれぞれの拝殿で、「三本殿二拝殿」の極めて珍しい形式の神社です。
回廊の吊るされた絵馬たちが長閑に風に揺らめいていました。
明日の18日は塩釜市で開催される“第六十四回 塩竈みなと祭り”ですが、本夕刻帰るので見られません・・・。
回廊の上壁には古き時代の奉納絵馬絵が掲げられていました。
日本武尊が迫り来る猛火に草薙の剣で立ち向かう図は大正14年(1925年)奉納。
「山部赤人と富士山」図は明治20年(1887年)。「神功皇后と竹内宿祢」絵は文久4年(1864年)の奉納。
外気に晒されていたからでしょうか? 色彩の剥落が激しく丁寧な保存を望みたいです。
鹽竈神社社殿などの見学を終了して東神門に向かう途中に、ここにしか咲かない国天然記念物の“塩釜桜”の細い樹がありましたが、今は葉桜だけですので省略。
木々に囲まれ瀟洒な造りの建物は奉納神楽が舞われる“舞殿”。
暑い日差しの中、人影の少ない鹽竈神社をたっぷりと見学してから、なだらかな東参道(女坂)に至る“東神門”を下りて次なる古社“志波彦神社”へ・・・。
鹽竈神社については、⇒ ここクリック。
2011 08 05(金)記。 前橋市時々 最高気温32.3℃
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