昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(313)三鷹市民大学「伝統日本への反逆と現代」①坂口安吾

2019-01-19 04:57:03 | 三鷹通信
 三鷹市民大学 日本の文化コース 大久保喬樹東京女子大名誉教授
「伝統日本への反逆と現代」①坂口安吾は、まさに戦前の国粋主義者に対立する無頼派(アナーキー 反道徳・反権威・反秩序)であった。
 弱気の太宰治に対して坂口は強気の無頼派だった。

 まだ戦中さ中、昭和18年に彼は「日本文化私観」を捨て身の覚悟で発刊した。
 内容は日本の伝統文化・芸術をコケにしたものだった。
 竜安寺の石庭「深遠な<禅の境地>に通じていても、涯(はてし)ない海の無限なる郷愁や砂漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのである」

 ただ、松尾芭蕉を評価していた。なぜか?
 芭蕉は庭を出て、大自然のなかに自家の庭を見、叉、つくった。彼の俳句自体が、庭的なものを出て、大自然に庭をつくった。・・・竜安寺の石庭よりはよっぽど美しいのだ・・・と評価した。

 「茶室は簡素を持って本領とする。然しながら、無きに如かざるの精神にとっては、特に払われた一切の注意が、不潔であり饒舌である。
 簡素なる茶室も日光の東照宮も、桂離宮も、共に同一の<有>の所産であり、せんずれば同じ穴の貉なのである。どちらも共に饒舌であり、<精神の貴族>の永遠の鑑賞には堪えられぬ普請なのである。
 この精神を、僕は、秀吉に於いて見る。いったい、秀吉という人は、芸術に於いて、どの程度の理解や、鑑賞力があったのだろうか? 彼の命じた芸術には一貫した性格があるのである。それは人工の極致、最大の豪奢ということであり・・・。いわば事実に於いて、彼の精神は<天下者>であったと言うことができる。
 秀吉に於いては、風流も道楽もない。彼の為す一切合財のものが全て天下一でなければ納まらない狂的な意欲の表れがあるのみ。天下の美女をみんな欲しがり、くれない時には千利休も殺してしまう。あらゆる駄々をこねることができた。」

 「<刑務所>、<工場>、<軍艦>この三つのものが、なぜかくも美しいのか。  
 ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そのほかのどのような旧来の概念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とはなり得なかった。

 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては実質の問題だ。
 必要ならば、法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい。
 我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって亡びはしないのである。
 武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしている限り、これが美しくなくて、何であろうか。」

 まだ戦中のさ中、よくぞこれほど我が伝統文化・芸術をコケにしてくれたものだ。戦後これが世の喝采を浴びて再登場したのは、大久保喬樹東京女子大名誉教授に言わせれば、まさにわれらが<解毒剤>となったのかもしれない。








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