昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(196)三鷹市民大学・哲学コース(9)

2017-06-11 03:53:09 | 三鷹通信
 さて、<私>にとっての<他者>は対象であると同時に
<私>は<他者>に見られている。 
 サルトルによれば、<私>はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。
 ところが<他者>のまなざしが出現すると、今度は<他者>が世界を構築し、所有し、<私>の世界は盗まれる。そればかりか、<他人>が<私>にまなざしを向けると<私>についての評価が相手に委ねられ、自分が自分の物でなくなる。
 そこでサルトルはこれを自由の受難と呼び、「人間の条件」と考えている。
 そして両者の間に「葛藤─相克」が起こる。

 レヴィナスはリトアニアのカウナスで生まれたユダヤ人だ。
  
 人間の意識、哲学、倫理について<他者>の<顔>と対面することが重要であると説いた。
 
 あるがままの<顔>そのものには、社会的特性はない。
 <顔>によってもたらされる関係性の本質が倫理である。
 <顔>は人を殺すことは不可能になる。
 <顔>には命令を下す絶対的な権能が存在し、これを「神の言葉」と呼んでいました。
 <顔>は神の言葉が宿る場所であると。
 <他者>の中にも、神の言葉は存在するのです。

 レヴィナスと対比する、<他者>なき哲学を唱えるドゥズールも挙げておく。
 
 「もちろん、人生全体が崩壊の過程である」、これほどハンマーの音を頭の中で響かせる分はほとんどない。
  
 この意味において、思想家は必然的に孤独で独我論者であるというのはまったく本当である。

 ボクは敢えて合田先生に質問した。
「この不安定な、混乱する世にあって、哲学から何かヒントが得られるかと参加してみましたが、どちらかというと、音楽が音を奏でて人を楽しませるように、哲学は言葉を紡いで人を納得させる学問なんですね?」と。
 先生は一瞬困惑されたように戸惑った顔で応えられた。
「たしかに西田幾多郎のように政治に関わる動きをされた哲学者もいらっしゃいましたが、権力に利用されるという批判もあり・・・」 
 ・・・ボクの質問は先生にとって、<哲学って言葉遊びですか>ってとられたのかもしれない・・・
 失礼だったかもしれない、そんな気持ちを抱きながら会場を出たが、一人の女性が声をかけてきた。
「哲学って難しいですわね・・・」
「もっと勉強しろってことですかね・・・」
「いえ、あなたがおっしゃった意味では、西谷修先生の講義の中でぜひ話題にして下さい!あの方は社会に関わる意味でスゴク積極的な方ですから」
 西谷修先生?  ・・・あの方か・・・。


 ボクは自分の作品の第二作目を書くにあたり、何か参考になればという意味で申し上げたのだが・・・