ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

下手だから踊らなくちゃ!

2007-08-11 10:49:04 | アート・文化

 地区の演劇講習会、5つの高校から57人が参加して賑やかに一日過ごした。講師は音楽座の役者藤田将範さん。今回は、強引にミュージカルがテーマだ。歌って踊って素敵なストーリーを作ってみようって内容だった。

 みんな楽しんでもらえただろうか、企画した僕としてはちょっと心配。だって、最初に藤田さんが、音楽の好きな人って手を挙げさせたら、なんと、ためらいがちに数名の手があがっただけだったから。一瞬、思ったね、演劇部って運動もダメ、音楽もダメって奴らの集まりか?運動、音楽大好き人間の僕としては、しんじらんな~い光景だった。

 それでも、講習が進むにつれて、こわばっていた参加者の心も身体も歌声も伸びやかになっていったから、これは藤田さんの指導力のたまものだ。いいや、そればかりじゃない。高校生にはもともとそうやって精一杯身体を動かしたいとか、大声で気持ちよく歌いたいって欲求があるってことなんだよ。

 それは置農演劇部見てみればよーくわかる。入部したときからダンスが好きで上手でって子も、ごく一部いないわけじゃない。でも、ほとんどが、身体固てぇ、リズム刻めねぇ、声がでねぇ、ってのばっかりだから。それが2年、3年とやってくると、みんなの前で踊ったりソロで歌ったりするようになるんだから。それも、ほんと気持ち良さそうに踊るんだよね。

 だから、みーんな歌いたいし、踊りたいし、自由に身体動かしたいんだよ。なのに、踊るんなら、格好良くなくちゃ、とか、ふりを間違えないようにとか、歌は上手でなくちゃ、とか、つまらない自己抑制でがんじがらめに自分を縛ってる。日本人っていつからそんなに歌や踊りに引っ込み思案になっちまったんだろうね。昔は、盆踊りとかあって、好きも嫌いも上手も下手も、他人の視線なんてへいっちゃらで、楽しんだのにね。宴会っていえば、小皿叩いて歌や踊りはつきものだった。

 なのにどう、今どき、手拍子打って大合唱って飲み会ある?歌はあってもカラオケだもの。カラオケって、俺、上手いんだぜ、みんな聞けや!の世界だからね。いや、ほんとに上手いかどうかは別として。上手いと思う奴がしゃしゃり出るんだ。下手な僕みたいのとか、自信ないのは、お愛想の笑顔貼り付けながらこう思うわけ。うるせーな、お前のための宴会じゃねぇってーの。

 で、突如、その原因に思い当たったんだけど、これはテレビのせいじゃないだろうか。テレビってのは、見る者と見られる者とが、ブラウン管、あっ、今なら液晶画面、で画然と限られているからね。向こう側には、プロがいたり、そこそこ上手い奴がいて、それをこちら側は、見て楽しむ、見て羨む、見て憧れるって構造だ。これが生活の中心に居座って、日常の心の持ち方まで、決めてしまったってことじゃないかな。つまり、人間には2種類ある、テレビの向こう側で得意げに歌い踊る奴、こちら側でぽーっと口明けて見てる奴。

 どうも、この二極化ってのは、日本の文化状況の低迷にかなり深く関わってるんじゃないだろうか。ここでまた、突然、アマチュア演劇に飛ぶんだけれど、アマチュア演劇って、こっち側と見なされてる奴らが、生意気にもあっち側に、つまり見られる側に越境するってことで、これは、この厳然たる二極化を無視する行為なんだ。だから、相手にされない。つまり、ど素人がなにやってんだ、向こう側はプロに任せときゃいいんだ、ってこと。で、客が入らない。あっ、僕たちの芝居がつまらないだけか。

 この固定された二極化、こいつを打ち破れば、一人一人気持ちよく、伸びやかに歌ったり踊ったりできるんじゃないか?みんなが観客でみんなが演じ手。みんなが歌い、みんなが踊る、うん、こんな光景どっかで見たぞ!そうだよ、沖縄だよ。沖縄のカチャーシーってそんな感じじゃないか?沖縄が静かにブームとして広がっていってるのは、この見る人・見られる人の区別の無かった、いや無かったとは言えないな、固定化されていなかった時代のおおらかさをそのまま楽しんでいる姿が、人々を引きつけるからなんじゃないだろうか。

 さあ、まとめだ。だから、この講習会で感じた歌って楽しい、踊るってサイコー、演じるって興奮するって記憶を、頭にも身体にもしっかりつなぎ止めておこうよ。そして、時にプロの舞台を楽しみ、時に下手でもいいから舞台に立つ。そんな仲間を少しずつでも作っていこうじゃないか。それが自分の暮らす地域や日常を、生き生きと活気のあるものにしていくこになると思うんだ、どう?

 

コメント (2)
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