土曜日は朝から高尾の新制作座へ。
かつて、学校をまわって公演することを生業としている劇団がたくさんあった。
新制作座もその中の一つに数えられるかもしれない。
多くの劇団がマンネリ化し「現在形」を失っていくのは世の常で。
自分も最初に「泥かぶら」の台本を読んだ時には、これを「今」どうやるんだろう? と疑問に思った。
作演出の眞山美保はすでに亡くなっている。
その演出を「受け継いでいく」ことしかできないはずだ、と。
ところが本番を見て衝撃を受けた。
なぜここまで「超えて」来ることができるのだろう!?
演劇は、その生のエネルギーが一番大事で、形式は問われない。
と常に言い続けてきたのだけど、その実際の現場に触れた気がした。
今日の稽古で、その理由が少しわかった。
稽古場で中心になる「演出代理」はいる。
が、それだけではない。
中心的な俳優たちが全員、眞山演出の深いエッセンスを理解しているのだ。
そして、何人もの俳優たちが、ほぼ全ての役を演じた体験を持つ。
台詞はすべて入っている。
自分が台詞を間違えると、別の俳優から「そこ違うよ!」と声が飛ぶ。
そして、眞山美保の演出者としてのフィードバックは、具体的なこともあるけれど、
最終的にはその役者の人間としての資質の話になるのだと聞いた。
それを叩き込まれた「長老たち」が元気でいる限り、
この舞台は一線を越えた水準を保ち続けるのだろう。
そのエネルギーは、とんでもないものだけど、
それをこの場にいる全員に伝え、残した眞山美保は、とんでもない人だったのだと理解できた。