泡 盛 日 記

演劇人(役者・演出家)丹下一の日記です。

解散総選挙に「解放感」などない

2012-11-21 16:03:44 | 丹下一の泡盛日記
 今朝の某新聞一面のコラムで1941年12月の日米戦争開戦の報に接したある若者=後の作家、が「何か吹っ切れるものがあった」と振り返っている文章を紹介していた。そして、その「吹っ切れた」解放感が今回の解散総選挙にもあるのではないか、と続く。
 なぜ今回の衆院解散を過去の日米戦争の開戦の「吹っ切れた」感と比べる必要があったのだろうか。戦争が始まることは「吹っ切れて」気持ちのよいものだと言いたいのかと邪推してしまう。もちろん「高揚感」で戦争を始める程度の国が負けるのは当然だ。
 開戦時の高揚感はいつまで続いたのだろう。この作家は最後まで「打ちてしやまん」とか「ほしがりません勝つまでは」とその気持ちを持続し続けたのだろうか。それについてコラムは何も触れていない。
 自分は父母からその高揚感も聞かされ、そしてその後の恐ろしい日々のこともたくさん聞かされている。特に母は東京大空襲を体験し、背後の戦闘機から機銃掃射で狙われ九死に一生を得ている。
 猛火の中を逃げ惑う12歳の少女を後ろから戦闘機で追いかけて機銃を打つことが「普通」の状態になることと、この「吹っ切れた」解放感や高揚感はつながっている。81歳になる母は、後ろを振り返って見たその米兵の顔を今も覚えていると言う。
 このアメリカ兵だけが「鬼畜」なのではない。戦場にいる人間はたいてい「鬼畜」になる。そして人を戦場に追いやる人は自らは常に安全な場所にいる。今回の原発事故でもそれは繰り返されている。彼らこそが「鬼畜」ということばにふさわしい。
 そして、自分は今回の解散総選挙に「ふっきれた」感も高揚感もない。現代日本の政治家はただただ自分のことだけしか考えていない人たちばかりだという悲しみがましているだけだ。政権が変われば景気が良くなるなどという「噂」に辟易し、「教育」も含めて搾取されている若い人たちのことを思う。
 「高揚感」に踊らされて投票したくはないなあ。

 
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