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竹取翁と万葉集のお勉強

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但馬皇女 誤読された純愛

2009年08月28日 | 万葉集 雑記
但馬皇女 誤読された純愛

 万葉集に激しい禁断の恋をしたとされる但馬皇女の歌があります。普段には歌の標の「在高市皇子宮」から、この歌が詠われた時に但馬皇女は高市皇子の家(宮)に同居していたとしています。ただ、この普段の解説の根拠を真剣に考えると、万葉集とその時代の解釈が大きく変わる可能性があります。
 なぜ、普段の解説の根拠を真剣に考えると、万葉集とその時代の解釈が大きく変わるのかの理由を説明する前に、その万葉集の但馬皇女に関わる歌を以下に載せます。

但馬皇女在高市皇子宮時、思穂積皇子御作謌一首
標訓 但馬皇女の高市皇子の宮の在(あり)し時に、穂積皇子を思(しの)ひての御作(おほみ)歌(うた)一首
集歌114 秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
訓読 秋の田の穂向(ほむき)の寄れる片寄りに君に寄りなな事痛(こちた)くありとも
私訳 秋の田の稲の穂は一方向に寄るように一途に貴方に寄り添いたい。支障があったとしても。

勅穂積皇子遣近江志賀山寺時、但馬皇女御作謌一首
標訓 穂積皇子に勅(みことのり)して近江の志賀の山寺に遣(つか)はしし時に、但馬皇女の御作(おほみ)歌(うた)一首
集歌115 遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
訓読 遣(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻(くまみ)に標(しめ)結(ゆ)へ吾が背
私訳 こちらに残っていて、ただ、貴方を恋慕っているだけでいることが出来ないのなら、貴方を追って付いて行きたい。追っていく私に判り易いように道の曲がり角毎に印を結んで下さい。私の貴方。

但馬皇女在高市皇子宮時、竊接穂積皇子、事既形而御作謌一首
標訓 但馬皇女の高市皇子の宮の在(あり)し時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれての御作歌一首
集歌116 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
訓読 人(ひと)事(こと)を繁(しげ)み事痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝(あさ)川(かわ)渡る
私訳 色々な事情があり支障のある今の私ですが、今まで渡ったことのない朝に川を貴方のために渡ります。

但馬皇女薨後、穂積皇子、冬日雪落、遥望御墓、悲傷流涕御作謌一首
標訓 但馬皇女の薨(かむあが)りましし後に、穂積皇子の、冬の日に雪の落るを遥(はる)かに御墓(みはか)を望みて悲傷(かなし)み流涕しての御作歌一首
集歌203 零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 塞為巻尓
訓読 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(いかひ)の岡の塞(さへ)なさまくに
私訳 降る雪は一面に積もるように降らないでくれ。吉隠の猪養の丘が一面の雪で覆われて隠れてしまうまで。

穂積皇子御謌二首
標訓 穂積皇子の御歌(おほみうた)二首
集歌1513 今朝之旦開 鴈之鳴聞都 春日山 黄葉家良思 吾情痛之
訓読 今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)聞きつ春日山(かすがやま)黄葉(もみぢ)にけらし吾が情(こころ)痛し
私訳 今朝の朝明けに雁が鳴く声を聞きた。春日山はもう黄葉しただろう。忙しくて、それを見る事の出来ないことを想うと気持ちが沈む。

集歌1514 秋芽者 可咲有良之 吾屋戸之 淺茅之花乃 散去見者
訓読 秋萩は咲くべくあらし吾が屋戸(やど)の浅茅(あさぢ)が花の散りゆく見れば
私訳 野辺の秋萩が咲く時期になったらしい。私の屋敷の浅茅の花の散っていくのを見ると。

但馬皇女御謌一首  一書云、子部王作
標訓 但馬皇女の御歌(おほみうた)一首  一(ある)書に云はく「子部王の作なり」といへり。
集歌1515 事繁 里尓不住者 今朝鳴之 鴈尓副而 去益物乎 (一云 國尓不有者)
訓読 事(こと)繁(しげ)き里に住まずは今朝(けさ)鳴きし雁に副(たぐ)ひて去(ゆ)かましものを (一云 国にあらずは)
私訳 下世話な仕事の多い里に住んでいないで、今朝鳴いた雁に連れ添って付いて行きたいものです。

 最初に但馬皇女と穂積皇子の人物を紹介しますと、但馬皇女は天武天皇と藤原大臣(中臣金)の娘である氷上娘との間の御子で、和銅元年(708)六月に亡くなられています。一方の穂積皇子は天武天皇と蘇我赤兄の娘である大甦娘との間の御子で、元明天皇の慶雲二年(704)九月に知太政官事に就任し、霊亀元年(715)七月に一品知太政官事で亡くなられています。この穂積皇子の官位と職務の一品知太政官事は、摂政宮または古来の大王の格に相当します。それで、歌では「御作歌」や「御歌」の敬称が使われているのです。また、穂積皇子は持統五年(691)に浄広弐の官位が与えられていますから、この頃に二十一歳になったと推定されます。つまり、誕生は天智九年(670)の生まれで、四十五歳の霊亀元年(715)七月に亡くなられたとなります。但馬皇女の歌には穂積皇子への「御作歌」や「御歌」と同じ言葉が使われていますから、二人は正式に婚姻し、但馬皇女は正妻であったと推定できます。ただ、二人の間に御子があったかどうかは伝承を含め伝わってはいません。

 ここで、これらの歌を鑑賞するとき「但馬皇女在高市皇子宮時」をどのように解釈するかで、歌の解釈は全く変わってきます。私は「壬申の乱から高市皇子を考える」で、飛鳥・奈良時代は政教分離の中皇命(天皇)と大王(太政大臣)の時代であり、藤原京とは太政大臣高市皇子が造った「明日香藤井が原宮」のことと説明しました。つまり、歴史において「在高市皇子宮」には「高市皇子の宮(みやこ)の時代」の意味合いもあるのです。普段の解説では、「在高市皇子宮」を「高市皇子の宮(みや)に在住する」と理解しますが、ここに私の解釈と普段の解釈の差があります。もし、「在」の漢字が時代を表わすなら「宮」は、必然的に首都である「みやこ」を意味します。
 そこで万葉集の中から、万葉集の編者が付けたと思われる標で「在」の漢字が使われているものを抜き出してみますと次のようなものがあります。

1. 山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌 集歌63
2. 柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時、自傷作歌一首 集歌223
3. 門部王在難波見漁父燭光作歌一首 集歌326
4. 難波天皇妹奉上在山跡皇兄御謌一首 集歌484
5. 獻天皇謌一首  大伴坂上郎女在佐保宅作也 集歌721
6. 獻天皇謌二首  大伴坂上郎女在春日里作也 集歌725
7. 在久邇京思留寧樂宅坂上大嬢大伴宿祢家持作謌一首 集歌765
8. 三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首 集歌969
9. 此獣獻上御在所副謌一首  獣名俗曰牟射佐妣 集歌1028
10. 御在西池邊肆宴謌一首 集歌1650

 ケース5、6、8は「在」の意味合いにおいて、場所を示す意味合いより、その場所にいた時代を表わす意味合いの方が強いと思われます。一方、ケース4、9、10は、住居する場所を表わしています。残りのケースは、場所の意味合いと時代の意味合いの両方の意味合いがあります。つまり、万葉集では「在」に場所を示すものとその場所にいた時代を表わすものとの二つの表現があったとすることが出来ると思います。
 こうしたとき、普段の解釈では、「在」は場所を表わすとして但馬皇女は「高市皇子の宮殿に在住する」女性ですから、それをもう一段進めて、高市皇子の妻と解釈して但馬皇女と穂積皇子との禁断の恋と理解します。一方、私は「在」はその場所にいた時代を表わすとして「藤原京の高市皇子が生きていた時代」の出来事と解釈します。つまり、但馬皇女と穂積皇子との恋は男性から女性に愛の告白をする古式の逆を行く女性の激情ですが、一途な純愛と解釈します。それで、歌の解釈が全く変わってきます。
 標の「在」の漢字を「その場所にいた時代を表わす」と解釈しますと、高市皇子を含む但馬皇女と穂積皇子との間に三角関係は成立しません。但馬皇女から積極的に穂積皇子に対し、女性の感情を一方的にぶつけただけになります。古事記や日本書紀にある神話から推測して、当時は女性から積極的に恋愛感情を表すことは良くないこととされていたと思われます。それが、「事痛くありとも」であり「人事を繁み事痛み」なのでしょう。この状況について、但馬皇女が受けた感情は、「噂で話題に上るが、強く諌める」ようなものではありません。歌を素直に読む限り、人妻による禁断の恋ではなかったと推測されます。(今日の考古学では、但馬皇女が独立して「宮」を持っていたことが有力のようです。)
 さらに、歴史から正しく社会を理解しなければいけないのは、但馬皇女と穂積皇子との噂になる激情があった時代を通じて、高市皇子は太政大臣で日嗣皇子尊の立場で、皇位継承第一位です。歴史では高市皇子は持統天皇より先に亡くなられていますが、場合によっては高市皇子と内親王との男子の御子は天皇の位に付く可能性があるのです。つまり、高市皇子の妃は立場上、浮気はできないのです。実際、高市皇子の子の長屋王は、王である軽皇子と藤原四兄弟による歴史初の下克上クーデターで殺されてしまいましたが、懐風藻の大学頭従五位下山田史三方の新羅の外交使節を迎えた宴での漢詩にあるように長屋王は漢語の「君王(=天皇または摂政宮)」なのです。但馬皇女が本当に高市皇子の妃であった場合は、大津皇子の例からして但馬皇女と穂積皇子とは処刑されるような事件なのです。どうも、高市皇子は壬申の乱を戦い勝った軍人であり、太政大臣日嗣皇子尊であることを忘れた解説が多すぎるのでは無いでしょうか。聖武天皇は「天下と天下の全ての富は自分のもの」と発想しましたが、高市皇子はそれ以上の軍人の太政大臣である日嗣皇子尊なのです。文学での創訳としての恋の三角関係の解釈はあっても良いと思いますが、普段の万葉集の解釈には遠いものと思います。これでは、歴史学の専門家が文学的に創訳を行い、歴史学の部外漢が普段の解釈をする不思議な情景です。
 このように歴史と「在」の漢語の解釈が得られた後の但馬皇女と穂積皇子との歌々の解説は、残念ながら普段の解釈で思われている三角関係とは違い、面白みがありません。但馬皇女の三首は、「人がどのように噂しようが、あの人を好きになったのだから仕方がないじゃないの。」という一途な感情で貫かれています。そして、歌からは、最初は「人が噂しようが、私から好きになってしまった。」、次に「毎日、貴方に会いたい。」、最後は共寝が知られた後の歌ですが「夜一人は寂しい。何と言われようと、今、抱かれたい。」と感情と恋愛は進化しています。
 ここで、集歌115の歌の標の「勅穂積皇子遣近江志賀山寺」の山寺は、普段の解説では近江の崇福寺のことを示すとしますが、まず、違います。この集歌115の標に示す志賀山寺は万葉集の「勅」の字や持統七年十一月の記事と持統八年(694)三月の詔から、滋賀県野洲市の益須寺(やすてら)のことです。このとき、近江益須郡に醴泉が湧き出し、その醴泉の効能を認め、朝廷は功績として近江の国司の頭(かみ)から目(さくわん)まで官位を一つ進め、住民には恩賞の品が下賜しています。この記事から推測して醴泉の湧き出しは白雉や白鹿なみの慶事の扱いですので、何らかの勅使が現地を訪れています。
 こうした時、この持統八年三月の詔の記事から但馬皇女と穂積皇子との恋愛が発展して行く、おおよその時期の推定が出来ると思います。その時間軸の中心が集歌115の歌で持統八年(694)三月で、但馬皇女の死亡の年である和銅元年(708)六月が次の制限ラインに相当します。では、穂積皇子が但馬皇女が亡くなられた後、但馬皇女を偲んで詠った集歌203の歌はいつ頃の歌でしょうか。歌からは但馬皇女は吉隠の猪養の岡付近に葬られたように読めます。そして、標では「遥望御墓」となっています。吉隠の猪養の岡は桜井市吉隠地区とされていますから、穂積皇子は藤原京から初瀬の山並みを望んでこの歌を歌ったと考えられます。まず、平城京ではないと思います。ここで、但馬皇女の死亡は和銅元年六月で、平城京遷都は和銅三年三月です。すると、冬の雪のチャンスは和銅二年と三年だけですので、但馬皇女が亡くなられて最初の冬の雪の日に穂積皇子はこの歌を詠まれたのでしょうか。当時、雪は天からの便りともされていましたから、それで、その雪を火葬され火煙(けぶり)になり雲となった但馬皇女からの手紙と思って「悲傷流涕」という情景になったのでしょうか。およそ、集歌203の歌は、和銅二年初春のある日に詠われたようです。歌の標に「竊接穂積皇子」とあるように但馬皇女と穂積皇子とが共寝をする関係になってから約十年後の死別と回顧の歌となります。
 なお、但馬皇女は和銅元年六月に初瀬上流の吉隠に葬られていますから、時代性として火葬の可能性が高いと思います。すると、皇室ゆかりとして長谷寺の西の岡(ここも吉隠の一部)で供養された可能性はあります。私としては、女性皇族として華の長谷寺で供養されたと思いたい気分です。現在、「華の長谷寺」と称される長谷寺は、女性にとって一人の男性に一途に恋してその思いを遂げ、そして一生その男性に深く愛された幸せな女性の恋愛成就のお寺なのでしょうか。色々と、妄想は広がります。

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