goo blog サービス終了のお知らせ 

竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

「船を榜ぐ」について考える

2009年12月11日 | 万葉集 雑記
「船を榜ぐ」について考える

「船を榜ぐ」について考えてみたいと思います。漢字で「榜」を真面目に考えたとき、普段に目にする万葉集の歌の解釈が正しいか、非常に不安になります。ご存じのように普段の万葉集では、歌での漢字は万葉仮名であるとして「音」を表す記号の意味合いが強く、万葉人が選んで使った漢字の意味を重要視しません。江戸時代からの「奈良時代に使われた漢字をどのように発音したか」が重要な主眼になっています。例えば、漢字では異なる言、事、辞は、万葉仮名発音の「こと」であり、現代日本語では「言」と記します。同じように榜、滂、掉、水手は、「こぐ」であり「漕ぐ」と記します。万葉仮名でしか万葉の歌を読まない現代の万葉学者にとっては興味が薄いことですが、漢字では異なる言、事、辞は、漢字では意味が違うように万葉集の歌の中では、それぞれ意味合いが違います。では、榜、滂、掉、水手の漢字については、どうでしょうか。
さて、人麻呂の草壁皇子の挽歌のなかに、次のような一節があります。

原文 四方之人乃大船之思憑而
訓読 四方の人の大船の思ひ憑みて

また、人麻呂の泣血哀慟作歌にも、次のような一節があります。

原文 後毛将相等大船之思憑而
訓読 後も逢はむと大船の思ひ憑みて

人麻呂がこのような表現を使うためには、人麻呂時代の大船は人々の信頼が厚く、頼りがいのあるものでなくてはいけません。ここには、平安期の遣唐使船のように難破・破船が多発し、大使や副使が恐れて乗船拒否するような感覚ではありません。
では、人麻呂が思う大船とは、どんな船だったのでしょうか。それを調べてみますと、万葉集にヒントがありました。それは次の歌です。

集歌58 何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
訓読 何処(いづく)にか船(ふね)泊(は)てすらむ安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟(をふね)
私訳 どこの湊に船を泊めているのだろうか。安礼のを漕ぎ廻って行った棚もない小舟は。
右一首高市連黒人

この集歌58の歌の「棚無し小舟」の歌詞が、当時の大船がどんな構造であったかを示しています。この歌の歌詞からは大船は棚を持っていたことが判ります。ここから、もし、飛鳥時代と江戸時代とで造船用語に大きな変化が無いとしますと、大船は根棚(底板)や中棚(側板)を組み合わせた中国のジャンク船構造を持っていたことが推定できます。逆に「棚無し小舟」とは、丸木舟であったことになります。
説明:棚とは、「板そのもの、平らな板、平ら」を意味する

さらに、この大船は、およそ帆走したであろうことが、万葉集の歌から推定できます。

集歌1182 海人小船 帆毳張流登 見左右荷 鞆之浦廻二 浪立有所見
訓読 海人(あま)小船(をふね)帆(ほ)かも張れると見るまでに鞆の浦廻(うらみ)に浪立てり見ゆ
私訳 漁師の小船が帆を張っているのかと見ている間に、鞆の浦の岬に浪を立てて小船が走り去るのが見える。

集歌42 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
訓読 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらこ)の島辺(しまへ)漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
私訳 潮騒の伊良虞の海岸線に沿って漕ぐ行く船に貴女は乗っているのでしょうか。浪の荒い島の海岸を。

まず、集歌1182の歌の歌詞にフェルトのような丈夫な帆を張る意味を示す「帆毳張流登(帆かも張れると)」とありますから、漁師の乗る小船でも帆走を行っています。ここから類推して、大船も、まず、帆走したと思います。それを補強すると思われるのが、集歌42の歌での「榜船荷(漕ぐ船に)」の「榜」の漢字です。
この「榜」の漢字は、古代中国では次のような意味合いがありました。

1.木、木の棒、高札
1.1木の棒を立てる  ここから杭、馬場の仕切り
1.2高札から広告、告知 ここから派生して額、表、名簿表
2.船、水夫  ここから呉榜の意味として手持ちの櫂 パドルのような櫂
3.弓弩などの弦の巻上げ用具
4.土地を掘削する棒、棒状の鋤

現在では、「榜」の漢字の意味合いは、1.2の高札、広告や名簿表の意味が強くなっているようです。一方、万葉集の船に関する「榜」の漢字は、2.船、水夫から、「船を漕ぐ」の意味を取っていると思われます。この「漕ぐ」の意味は「自転車のペダルを漕ぐ」、「ボートを漕ぐ」や「手押しポンプを漕ぐ」などからして、「道具を操って動かす」を意味します。つまり、船を漕ぐとは道具を使って船を前に進ませる動作を示しますから、その「道具」とは古代では何を意味したのでしょうか。櫂でしょうか、艪でしょうか、それとも帆でしょうか。
 私は独断と偏見で万葉集での「榜」の漢字の意味合いを、3.弓弩などの弦の巻上げ用具の意味合いもあると理解しています。もし、「榜」にロクロのような回転器具を使って弦や綱を巻き上げる動作の意味があるとしますと、これは船の横帆の桁木を綱で引き上げて展帆する行為を表すことになります。つまり、帆走です。自分で呆れ返るような、ずいぶんな強引さです。なお、万葉集では、おおむね「大船は榜ぐ」ことになっていますし、梶棹の舟は「己具」や「許藝」の用字で「こぐ」で表現するようです。
さて、日本で古代ローマのガレー船のように船舷から長い柄の櫂を出して船を漕ぐようなことがあったのでしょうか。大船は、当然、船舷が海面から高い位置にありますから、長い柄の櫂やオールでなくてはいけません。ペイロン船のようなパドルや手櫂ではありません。一方、艪ですと、大船には船舷から張り出した複数の艪座が必要ですが、そんな遣唐使船の姿を記した絵をまだ見たことはありません。さらに、遣唐使船の定員と職務から、ガレー船のような大量なオール手は乗船してはいなかったようですし、乗船した学僧や訳語が航海中にオール手として扱われた例はないようです。
さらに、出港前の準備作業を、次の歌から推測することが出来ます。

石上大夫謌一首
集歌368 大船二 真梶繁貫 大王之 御命恐 礒廻為鴨
訓読 大船に真梶(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き大王(おほきみ)の御命(みこと)恐(かしこ)み磯廻(いそみ)するかも
私訳 大船に立派な梶を貫き降ろして、大王のご命令を恭みて浪の恐ろしい磯の周りを航海することです。

 集歌368の歌の歌詞に「真梶繁貫」とありますから、出港前に大きな梶を艫の戸立(とだて)部に差し込んでいたと思われます。ここまでは、万葉集の歌から想像は出来るのですが、マストの本数、野狐帆(または弥帆)の有無については分かりませんでした。こうしますと、とぼけた人間が万葉集の歌から想像する大船とは、

1. ジャンク船のように板を組み合わせた構造をしている
2. もっぱら帆走を行なう
3. 梶は差し込み式になっていて、帆走時に差し込む

こんなイメージの船になります。
ここでは、あくまでも飛鳥時代から江戸時代にかけて、日本での基本的な木造大型船の造船用語(用語の種は弁才船の用語です)に変化がないことを前提に、古代の大船を想像しました。

さらに、日本書紀の天智天皇紀に載る次の記事を参考にしますと、単純計算で彼らが乗っていた大船は定員40人程度の大きさになります。この大きさは、平安時代の外航航路に就いていた新羅船(船長八丈=24m)に相当するような大きさです。これですと、人麻呂時代の人々が「大船の思ひ憑みて」としても肯けると思います。

原文 唐国使人郭務淙等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人、乘船四十七隻
訓読 唐国の使人(つかひ)郭務淙等六百人、送使(おくるつかひ)沙宅孫登等一千四百人、總合(す)べて二千人、船四十七隻に乘りて

この世界から、逆に万葉集の世界を覗き返してみますと、万葉集の中に「大船を榜ぐ」と詠う歌は、少なくとも二十首程度は見つけることが出来ます。当時において、大船の帆を揚げての航行を見ることは日常的風景では有りませんが、特殊な風景でもない、そんな感覚が想像出来るでしょう。額田王、人麻呂、旅人、坂上郎女達の海の歌の背景には、この風景があったとしますと、さて、皆さんが思っている万葉集時代の交通機関への想像と一致するでしょうか。丸木船や粗末な小船ではありません。現在の遠洋マグロ船に等しい大きさです。参考に、電車一両の長さが20mです。
続日本紀によると、このような大船を天平宝字三年に三年以内に五百隻ものの船を建造することの詔を下していますし、次に示す万葉集の歌から想像すると琵琶湖でも大船が周航していたようです。さらに、三重県志摩と愛知県知多半島を結ぶ連絡航路もあったと思われます。また、東大寺の大仏建立時には、少なくとも600トン以上の銅地金が奈良に集められていて、その多くが山口県秋吉台付近の鉱山の生産物と推定されています。ここからは、平城京時代には東海道から瀬戸内海を抜けて九州に至る大量の物資を運ぶ海上交通網が確立されていたことが類推されます。

船関係する歌
集歌151 如是有乃 豫知勢婆 大御船 泊之登萬里人 標結麻思乎
訓読 かからくの豫(かね)て知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを
私訳 このようなことがあらかじめ知っていたのなら大御船が泊まっている湊に標を結って出港しないように留めましたのに。

集歌42 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
訓読 潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を

ご承知のように、万葉集の標準的な解釈では、集歌58の歌の「棚無小舟」の歌詞が示す「棚」とは船縁の板か、丸木舟の内部の胴を補強する横板を想像することになっています。また、「榜」の漢字の意味は「櫂や櫓を漕ぐ」と理解することになっています。そのため、万葉集の歌に載る大船でも、平安後期から現代までの歌人たちには京嵐山や秩父長瀞の観光遊覧船程度の感覚となっています。
さて、その観光遊覧船程度の感覚で日並皇子尊の葬送儀礼で柿本朝臣人麻呂が

原文 四方之人乃大船之思憑而
訓読 四方の人の大船の思ひ憑みて

と詠えるかは、和歌を楽しむ歌人たちの感性に拠ります。

ここで、工業技術の面から見てみますと、木材加工の歴史からは、室町時代以前の日本には材木を縦に切るような鋸は無かったようです。このために、平らな板は、まず、丸太を斧で角材に加工し、それを割り板法という木口に板目に合わせて楔を打ち込んで角材を縦に割っていく方法で製材されていました。もし、節や板目が悪いと平らな板が取れないことになります。したがって、古代では製品の歩留まりの上からも板は貴重な物資だったのです。また、板と板との接合は手斧・槍鉋等で丁寧に磨り合わせた後に、木釘で留めたのではないかと想像されています。板は割り板ですから、比較的に厚板でしょうから接合面は斜めに磨り合わさっていたと想像しています。手斧・槍鉋等での板の加工ですが、それでいて高度な水密性が要求されるのですから、船大工は当時、最高峰の木材加工の技術者だったと思います。
このように古代において木材の加工技術からして板が高価であり入手の難しいものとしますと、官の財政支援がないと大船の建造は困難でしょう。また、大量の物資の移動が無いと木造の大船は無用の長物です。平城京時代には東大寺の大仏の存在から千トンを越える銅の生産や運搬が確認できますし防人の東国からの九州への移動がありましたが、平安期以降から戦国時代初期までは産業としての国内の鉱山業や製鉄・製銅業は衰えていますし、大量な人の移動も少なかったようです。平安期以降は中央の指導力が薄れ、各地方での自給自足の風であったのではないでしょうか。さらに時代を眺めると、中国での和銅銀貨などの発掘の成果から平城京時代は日本から唐に銅や銀の貨幣や地金を輸出していたことが推定されますが、室町時代には大量の銅銭を輸入するようになっています。室町時代の貨幣経済の発展に伴う銅貨の輸入は、日本国内の鉱山資源の枯渇に理由を求める人もいますが、そうではありません。実際の理由は、平安時代に藤原貴族の頽廃・略奪により世の中の技術者と社会資本が枯渇したのです。平城京時代の鉱工業の興隆により世界の財宝や知識が正倉院に集まる時代から、平安時代の米と魚中心の自給自足の生活への没落です。
この時代背景があるためでしょうか、万葉集の世界では海外交流・航海、海辺の風景や狩猟は一定のテーマですが、稲作自体は重要なテーマではありません。日本人は稲作中心とする国民であるとする規定からは、実に不思議です。この世界の財宝や知識が正倉院に集まる世界から米と魚中心の自給自足の生活への頽廃・没落を、華麗・優美なる平安王朝文化の時代と私たちは称します。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中大兄 三山の歌を鑑賞する | トップ | 遣新羅使歌を鑑賞する »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

万葉集 雑記」カテゴリの最新記事