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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 番外編 聖徳太子はやはり聖徳太子

2019年03月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外編 聖徳太子はやはり聖徳太子

 万葉集の歌々は後年の勅撰和歌集とは違い、社会情勢などを背景とした歌も扱います。このため、万葉集の鑑賞ではその時代と和歌とは分離できないと考えています。この万葉集に対する思いにおいて、弊ブログの考える飛鳥時代から奈良時代の統治体制に関わるため、以下の話題について遊んでいます。

 近々の話題で「聖徳太子は実存しなかった」と云う空想論があります。その議論をリードしたのが大山氏であり、氏のその論旨の骨格を成すものが同時代書で大陸の正史となる『隋書倭国伝』に『日本書紀』に示される推古天皇と聖徳太子の姿がないことにあります。大山氏は大陸の正史である『隋書』からすれば『日本書紀』に載る推古天皇と聖徳太子とは虚構だとします。つまり、日本歴史は『日本書紀』が捧呈される前の歴史は如何様にも『日本書紀』の中で創作が可能であり、信頼性がないとします。当然、氏の基準からしますと、中国の正史などに裏打ちされない日本の歴史はすべて虚構としなければ学説として成立しませんが、そこまでの主張はしないようです。ある種、受け狙いの空想をもっともらしく紹介しているのでしょう。なお、半島の確実に伝存する歴史書は『古事記』や『日本書紀』を遡りませんから、歴史参照資料は大陸のものに限られることになります。およそ、進歩的学者が『三国史記』に載る記事を参照することもあるようですが、この『三国史記』の成立は十二世紀のことですし、引用する資料がすべて伝存しない状況からその正誤の判定は出来ません。つまり、『古事記』や『日本書紀』に載る記事が虚構とする態度なら『三国史記』に載る列島に関わる奈良時代以前の記事もすべて虚構を前提としなければいけなくなります。

参考資料:大山誠一による聖徳太子虚構説
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』が発表された。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の二つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら二つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
説において「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧 道慈らである。十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した」とする。

 ここで紹介しました論拠の前提において、古代の倭の統治体制が大陸や半島と同様なものだったかと云う点を確認する必要があります。大山氏たちの論拠の背景に、暗黙の裡に倭の統治制度は専制的な王による統治が確立していたと考えていると思います。この前提条件が成り立ちませんと、統治者の特定において『隋書』と『日本書紀』との間で一対一の関係は成立しません。
 もう一つ、重要なことに『日本書紀』では隋使裴淸を唐使裴世清とした上で、大和側の出席者の中に推古天皇がいたかどうかを明記していません。確認できる出席者は「皇子・諸王・諸臣」だけですので、推古天皇が隋使裴淸の親書捧呈の場に出席していない場合は、隋使側は皇太子を倭の治政の王と考えたと推定することが正当になります。
 もしここで、古代の大和王朝が神と人とを仲立ちして為す神道と云う祀事(まつりごと)と人々を治める政(まつりごと)とを分離した宗政二元統治体制としますと、大山氏やその支持者の三浦氏たちの立場は危ういものになります。弊ブログの立場では祀事は巫女が執り、政は大王が執るとする立場ですから、隋使である裴淸と対面・応接するのは政を執る大王が担当することになります。つまり、隋使裴淸が対面した男子の大王が『隋書倭国伝』に記す倭王となります。他方、『日本書紀』からしますと、当時の指導体制は王族の推古天皇と聖徳太子に臣下の蘇我馬子の三人で執っていたとします。すると、対外交渉や治政は王族である聖徳太子を代表として集団合議で執ったとしますと、外国使節団から見ますと聖徳太子が倭王となります。ここに『隋書』と『日本書紀』との間で表記の差が現れます。

<隋書倭国伝より部分を引用:>
明年上遣文林郎裴淸使於倭国。度百濟行至竹島、南望耽羅國經都斯麻國逈在大海中、又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸、自竹斯國以東皆附庸於倭。
倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎、後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞、既至彼都。
其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義。是以稽留境内不即相見。今故淸道飾館以待大使、冀聞大國維新之化、淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭、既而引淸就館。
其後淸遣人謂其王曰、朝命既達請即戒塗、於是設宴享以遣淸、復令使者随淸來貢方物。此後遂絶。

引用先 HP:隋書倭国伝 (http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm)
HP「隋書倭国伝」には現代語訳がありますから、必要に応じて参照してください。

<日本書紀の対応する記事を抜粋:>
推古天皇十六年(六〇八)八月壬子(十二)
壬子。召唐客於朝庭、令奏使旨。時阿倍鳥臣・物部依網連抱、二人為客之導者也。於是、大唐之国信物置於庭中。時使主裴世清親持書。両度再拝、言上使旨而立之。其書曰、皇帝問倭皇。使人大礼蘇因高等至具懐。朕欽承宝命、臨仰区宇。思弘徳化、覃被含霊。愛育之情、無隔遐邇。知皇介居表、撫寧民庶。境内安楽。風俗融和。深気至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄。比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意、并送物如別。時阿倍臣出庭、以受其書而進行。大伴齧連迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時、皇子・諸王・諸臣、悉以金髻華著頭、亦衣服皆用錦・紫・繍・織及五色綾羅。

 ここで、大山氏やその支持者の三浦氏たちが唱える「聖徳太子虚構説」は、深く認識していませんが、それは持統天皇・文武天皇虚構説に転ずることになります。『日本書紀』で任意に虚構を創作できるものとしますと、その論法からは明確な統治事績が残らない持統天皇や文武天皇の人物像もまた虚構となります。「聖徳太子虚構説」では『万葉集』や『懷風藻』に載る聖徳太子の記事は『日本書紀』の創作記事を由来としますから、同じように『懷風藻』に載る葛野王の爵里の記事を下に持統天皇と文武天皇との関係を論じることも出来なくなります。それに葛野王の爵里の記事に示す爵位は同時代性が無い後年の爵位体制を基準としたいかがわしい作為が為されていますから、本来ですと持統天皇の葛野王の爵里から推測される事績自体には信頼性はありません。およそ、正史に載る律令公布の歴史が正しいとしますと、律令体制からすると明確にいかがわしい爵位記事を下にした持統天皇の人物像については議論せずに、選択的に聖徳太子虚構説だけを大きく取り上げるのも不思議です。紹介しましたように彼らの論理や態度において歴史を体系として扱うことができないと云う欠点があるとしますと、ここに有名な万葉集難訓歌だけを切り取って述べる万葉集は古語朝鮮語により創作されたトンデモ説と同様な本を売りがたいがための受け狙いの思い付きの疑いが生じます。それは学問じゃありません。

 話題を聖徳太子に戻しまして、参考資料として以下に弊ブログの守備範囲である奈良時代中期までには成立していたであろう『万葉集』や『懷風藻』の記事を紹介します。そこでは『古事記』や『日本書紀』で「上宮之厩戸豊聰耳命」、「上宮廐戸豊聡耳太子」と紹介する人物を「上宮聖徳皇子」や「聖德太子」と案内します。解説では「聖德太子」の名称が現れるのは、『日本書紀』の敏達天皇五年に載る「其一曰菟道貝鮹皇女、是嫁於東宮聖徳」の記事を除きますと、『懷風藻』の序文を最初のものとします。

資料 一
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作謌一首
標訓 上宮聖徳皇子の竹原井に出遊(いでま)しし時に、龍田山に死(みまか)りし人を見て悲傷(かな)しみて御作(つくりま)しし謌一首
集歌415 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人可怜 (可は忄+可)
訓読 家(へ)にあらば妹し手(た)纏(ま)かむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびひと)あはれ
私訳 故郷の家に居たら愛しい妻の手を抱き巻くだろうに、草を枕にするような辛い旅で身を地に臥せている。この旅人は、かわいそうだ。
<この歌の背景を示す日本書紀の記事:>
推古天皇二一年(六一三)十二月辛未(二)
辛未。皇太子遣使令視飢者。使者還来之曰、飢者既死。爰皇太子大悲之。則因以葬埋於当処、墓固封也。数日之後、皇太子召近習先者、謂之曰、先日臥于道飢者、其非凡人、為必真人也。遣使令視。於是、使者還来之曰、到於墓所而視之、封埋勿動、乃開以見、屍骨既空。唯衣服畳置棺上。於是、皇太子復返使者、令取其衣、如常且服矣。時人大異之曰、聖之知聖、其実哉。逾惶。

資料 二
懷風藻序より抜粋
逖聽前修、遐觀載籍      逖に前修を聽き、遐く載籍を觀るに
襲山降蹕之世、橿原建邦之時  襲山に蹕を降す世、橿原に邦を建てし時に
天造艸創、人文未作      天造艸創、人文を未だ作らず
至於神后征坎品帝乘乾     神后坎を征し品帝乾に乘ずるに至りて
百濟入朝啓於龍編於馬厩    百濟入朝して龍編を馬厩に啓き
高麗上表圖烏冊於鳥文     高麗上表して烏冊を鳥文に図しき
王仁始導蒙於輕島、      王仁始めて蒙を輕島に導き
辰爾終敷教於譯田       辰爾終に教へを譯田に敷く
遂使俗漸洙泗之風、      遂に使して俗をして洙泗の風に漸み
人趨齊魯之學         人をして齊魯の學に趨かしむ
逮乎聖德太子、        聖德太子に逮みて
設爵分官、肇制禮義      爵を設け官を分ち、肇めて禮義を制す
然而、專崇釋教、未遑篇章   然れども、專ら釋教を崇めて、未だ篇章に遑あらず


 聖徳太子虚構説において、場合により大山氏やその支持者の三浦氏たちの思想の背景に彼らが理想とする天皇統治論があるのかもしれません。古代の天皇が専制君主のような絶対権力を持っていたかと云うと違うでしょう。天皇はその地域の神事を取り仕切る巫女の立場であり、大王は武装武力で人民を切り従えていた支配者としての治政者と考えます。
 古代、列島は倭を始めとして大和の国々は女系社会であったとします。そしてそれぞれの地域の神事は巫女によって行われ、巫女の地位は血族で代々受け継がれたのではないでしょうか。ある種、邪馬台国の卑弥呼と台与との関係性です。祀事と政治との距離が近かった時代、必然、神の神託を人々へと繋ぐ為政者の地位は巫女に近い男子が執ったでしょうから、祀事と政治とのペアで巫女と王との組み合わせが生まれ、支配地域が拡大するにつれそれが天皇と大王へと育ったと考えます。
巫女と王とのペア例:
神武天皇の東征の時の「菟狭国造の祖となる菟狭津彦と菟狭津媛」の組み合わせ
仲哀天皇の洞海湾への進撃の時の「男神の大倉主と女神の菟夫羅媛」の組み合わせ

 ただし、これは古代の列島の古風です。律令体制での規定ではありません。大陸文化を基盤とする律令体制では天皇と大王との二元統治はありえない事態ですし、天皇制の基盤は倭を中心とする神道ですから仏教・道教・儒教とは相性が悪いことになります。
 ここで、倭の統治体制を紹介するものとして『隋書』に次のような文章があります。

開皇二十年、倭王姓阿毎字多利思北孤、號阿輩雞彌遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、倭王以天為兄以日為弟。天未明時出聽政跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰此大無義理、於是訓令改之。

 この文章で問題なのは「兄」が意味するものが古語での「エ」なのか、「セ」なのかです。古語日本語で「兄(エ)」には性別指示はありません。兄弟・姉妹関係での年上を示すだけですから、次の『日本書紀』の記事が示すように『隋書』の文中「兄」が示すものは大和言葉からの姉かもしれません。古語日本語を基準としたとき、漢文が示すものは可能性として姉である巫女が深夜早暁に神事を行い、夜が明けると巫女の弟(オト)である年下の男弟が治政を行ったとの解釈も可能です。これは天皇と大王との二元統治となりますから、大陸的な統治基準からするとありえないことになります。もし、大山氏たちがこの文章を推古天皇と厩戸皇子との関係においてその姿が見えないとする根拠の一つとするなら、漢文読解時での日本語への想像力が不足しています。

<日本書紀;景行天皇四年二月>
天皇聞、美濃国造名神骨之女兄名兄遠子・弟名弟遠子並有国色。

 補足して、唐初時代の漢文解釈では動詞「為」は「治也、又使也」、動詞「以」は「使也、又令也」ともしますから、漢文「倭王以天為兄以日為弟」は「倭王令天使兄、令日使弟」と書き換えても本来の意味は保たれることになります。つまり、「倭王は天に兄を使わしめ、日に弟を使わしめる」との解釈が可能です。加えて、国風・風俗を聞かれた遣隋使がその国風を表す時に、地域概念となる「倭国」と云う言葉概念を持っていませんと「倭国」と云う言葉の代わりに「倭王」と云う言葉で「倭の国では」と云う日本語を中国語で示すことになります。つまり、ここでの「倭王」の「王」とは「天下所帰往也」と云うことから特定の人物を示すものにはなりません。
 為にする紹介ですが、このわずか十文字で構成された漢文でも斯様に定訓は定まっていません。ご承知の標準的な訳「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす」を下に「天未明時出聽政跏趺坐、日出便停理務、云委我弟」の文章を眺めますと、倭王、兄、弟の三人の人物が登場し、その解釈が示す推古天皇時代の倭の執務体制が不思議とならざるを得ないのです。そこで多くの歴史学者が登場し「天」と「日」の解釈などを陳べますが、結果、合理的な解釈は不能だから、その原因となる『日本書紀』の推古天皇も厩戸皇子もいなかったことにしようとします。ただ、出発点となる『隋書』の漢文読解が正しいかどうかという基礎となる問題点に立ち返ることはないようです。

 戻りまして、
 ただこのような二元統治制度の可能性だけでなく、世界的に宗教感覚では特異性を持つ大和人は神道神主を執り、同時に仏教得度も行うと云う宗教上でのアクロバット的な融合を遂げてしまいます。そのため、宗教と統治が近い時代の政治体制の解釈に対しそれを世界基準から眺めますと非常に複雑怪奇なこととなります。
 他方、大和という国の中で大陸由来の律令体制と云う枠組みを守りつつ天皇と大王との二元統治の折り合いを付け、それを律令的に表現するならば天皇と太政大臣と云う関係でしょうか。これを古代倭の風習の中で例えますと、大航海での持衰と船長の関係に近いと考えます。航海における役割分担では持衰は航海に関わるすべての人々の航海安全・無事の願いを精進潔斎して神との仲立ちを行い、船長は航海と云う操船実務を執ります。この古代の風習を拡大すると巫女と王との関係につながると考えます。
 大和の歴史を眺める時、この神道と天皇との関係の解釈がキーになるのでしょう。天智天皇の時代までは倭の豪族が連合体を組成し、この連合体が列島各地の豪族を支配する形で大和と云う国を形成していたと考えます。その時、この倭の豪族の連合体は畿内と云う狭い地域に根づく人々が信じる伝統の祭祀・風習により同じ仲間と云う精神的な結束をしていたと考えます。これを仕切ったのが太古からの血が繋がる天皇家の巫女です。豪族の連合体での象徴としての組長は不在でも談合組織が保たれていればかまいませんが、伝統の祭祀は毎年折々の時期に倭地域全体を取り纏める形で執り行う必要がありますから天皇家の巫女の不在はありえないことになります。そのため、『日本書紀』で云う「天皇」または「中皇命」と云う巫女が亡くなった時、新たな巫女が任命され、同時に伝統として新たな巫女のパートナーが「王」と云う立場に立ったのでしょう。天智天皇は間人中皇命が亡くなられ埋葬されたのを契機として倭皇后のパートナーの立場で倭の巫女と王として選任されたと考えます。ただまだ、この段階では畿内地域の倭の豪族たちの連合体の組長と祭祀を行う巫女のペアのような立場です。
 この倭の豪族連合体の組長の立場が変わるのが天武天皇の時代からです。天武天皇は列島各地におかれた倭の豪族連合体の植民地である屯倉を拠点とし、その屯倉の現地利益代表である天皇家に繋がる王族たちを糾合してそれぞれの地域での連合体を組成し、その列島各地の地域連合体をもって倭の豪族たちの連合体と対決・勝利することで、天武天皇は列島と云う大和の豪族・王族の連合体の組長へと変質します。この変質から祭祀は倭地域と云う狭い範囲から列島全体を単位とする大和と云う広い範囲に広がり、結果、神事祭祀の神主が地域の巫女から列島全体の精神体の代表として大王へと変わり、その大王が国家の祭祀に適う新たな儀礼を創作して執り行うようになったと考えます。ここに列島全体の精神体となる国家神道と云う新たな概念と所作が生まれ、それを具現化するものが伊勢皇大神宮や官幣社であり、藤原京での祈年祭などの神事と考えます。
 ただ、巫女は狭い地域での、同じ方言言語を使い、同じ伝統の祭祀・風習により同じ仲間と云う精神的な結束の下に成り立つでしょうが、国家神道は違う成り立ちで集合体を形成したと考えます。これが弊ブログで指摘しますように鉄製農機具や優良水稲種の配布、さらに織機や製陶などの先進技術導入への支援などの実利だったと考えます。これらは祈年祭などの折々の神事に参加するものだけに配布・支援されるものであり、それに加え中央の神事に参加する地域の豪族は「祝(はふり)」と云う神主の立場で地域の支配権を認めたと考えます。このような仕組みで天武天皇以降の大王制による全国統治が進んでいったと考えます。なおそれでも畿内では伝統の天皇家の巫女による神事が求められ斎宮や中皇命のような立場の女性が求められたと考えます。
 しかしながら、この変化はさらに仏教の普及と云うもので変化が起き、聖武天皇や孝謙天皇の時代に国家神道の色合いが薄れて行ったと考えます。

 このような歴史と統治の変転の中、聖徳太子と云う人物像が形成されたと思います。一方、壬申の乱以降の日本国と云う統一国家は天武天皇・高市皇子の親子の強力なリーダーシップがなければ成立しなかったでしょうし、同じように厩戸皇子がいなければ法治による国家体制への転換も進まなかったのではないでしょうか。
 少なくとも隋使裴淸が朝鮮海峡を渡って対馬・壱岐に入ったとき、それ以降の倭支配の各地では一定の爵位制度に従った統治体制は成立していました。つまり、厩戸皇子の時代には何らかの「冠位十二階」は規定されていましたし、各地の豪族に倭支配の統治を委託する時の刑事や行政の執務規程として何らかの「十七条憲法」は存在していたでしょう。もし、学界大勢として日本最初の王都である藤原京建設を太政大臣高市皇子の業績とは言わず持統天皇の業績と言うのだから、推古天皇の時代のすべての業績は厩戸皇子や蘇我馬子の名前を挙げるのはおかしいと主張するなら確かにそうです。ただ、そのような主張をするなら、内臣と云う天皇家秘書官だった藤原鎌足や藤原不比等もまた歴史から名前を消す必要があります。
 結果、大山氏やその支持者の三浦氏たちが唱える聖徳太子虚構説は、社会や人々の知識の集積により統治体制は変化するということを認めない固定的であるべきと云う古い世代の立場からのものでしょうし、昭和中期に流行った『古事記』や『日本書紀』などに示す日本史は後年の創作であると云う「意図した流説」の残滓なのかもしれません。論を立てるにおいて都合の良い部分を切り取り、他を隠してそこだけで議論を進めるのは、縦横の情報が即座に入手可能なインターネット時代では背景が見え見えですので難しいと考えます。あと、政府の論文公表ルールにより子弟以外の学際も人々も眺めていますから、内輪議論も難しいものがあります。

 幣ブログは、万葉集の鑑賞の時、斯様な歴史感と天皇・大王制度解釈で行っています。そのため、その影響が大きい藤原京から前期平城京(特に神亀年間まで)の時代と政体解釈が一般的なものと違います。そのため、聖徳太子虚構説を鼻先で笑うような不遜な態度を取ります。

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