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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 七二 大麻から万葉時代を楽しむ

2014年06月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七二 大麻から万葉時代を楽しむ

 以前、「初夜の儀を考える」と云う話題を取り上げましたら、このブログでの一番の人気のものとなっています。そこで、今回も調子に乗って、少し、刺激的な題名を付けてみました。勘違いをされる方からのPV稼ぎを企んだ姑息な手段です。ご勘弁を。
 ただ、ご存知のように古典が好きな人は「大麻」を「たいま」ではなく「おほぬさ」と読むことは承知のことと考えます。この「大麻」は神道では重要な神具の一部を為すものですし、万葉時代の表記では、およそ、「大幣」と記述します。「おほぬさ」を「大麻」の当て字で表記しだすのは、個人の考えですが、平安時代以降のことではないでしょう。
 ところで、この「大幣(おほぬさ)」は写真で見ると一目瞭然ですが、言葉では次のように説明されます。

大麻、大幣(おほぬさ)は、神道の祭祀において修祓に使う道具の一つで、榊の枝または白木の棒の先に麻苧(あさを)をつけたものである。白木の棒で作ったものは祓串(はらえぐし)とも言う。 「大麻」(おほぬさ)という言葉は、本来は「ぬさ」の美称である。
注意:あさを(麻苧)とは、麻の繊維を原料として作った糸。

 イメージとして神事の折、お祓いをするときに神主さんが手に持っている榊から垂れている白い紙を思い浮かべて下さい。本来は稲妻状に切った白紙(紙垂=しで)ではなく、解説にあるように麻の糸束であるべきものですし、格式の高い神社では今でも麻苧と呼ばれる麻糸が使われています。歴史では先の敗戦の時、占領軍により日本文化の撲滅運動の一環で、原則的に原料となる麻草の栽培が禁止され、その影響で麻苧と云うものが入手困難になっています。
 脱線しますと、お盆の時、先祖を迎え入れ、また、送り返すときに焚く「オガラ」と云う白木の枝のようなものは「麻幹」と記述し、麻草の表皮を剥ぎ乾燥させた白い草幹を使用するのが本来です。当然、麻草の栽培が原則的に禁止されていますから、今では輸入されたものでないと一般の人では入手が出来ないと思います。また、麻草の種は七味唐辛子に混ぜられている小さい丸い種がそれです。当然、『万葉集』でも次の集歌¥521の歌にも詠われるように「麻布」を紡ぐ麻の繊維は暮らしに重要なものです。

集歌521 庭立 麻手苅干 布慕 東女乎 忘賜名
訓読 庭し立つ麻手(あさて)刈り干し布慕(した)ふ東女(あづまをみな)を忘れたまふな
私訳 庭に植えた麻を刈り取り干して布として肌身に着けることを乞い願うように、貴方が刈り取って召した東女をお忘れにならないでください。
注意 原文の「布慕」の「慕」は、一般には「曝」の誤字として「布曝」とし、別歌を創ります。「布慕」は身分ある者の恋歌で、「布曝」は鄙に伝わる労働歌です。

 ここで確認ですが、紹介した「麻草」は厚生労働省の用語では「大麻草」と分類し、「マリファナ」または「ヘンプ」とも称します。現代の麻の夏着は「リンネ」系のものが大半で、これは種類が違う植物です。

 もう少し脱線します。この「大麻」を「おほぬさ」と読むことを調べますと少し難しいものがあります。現在、「麻」と表記される植物は、古代では「あをふさ(青総)」と呼ばれ、そこから言葉が省略されて「あさ」と呼ばれるようになったようです。一方、神道での「ぬさ」と云う言葉は、旅先などで先々の神を祀るときに供えるものを「野総(のふさ)」と称し、この言葉が省略・変化して「ぬさ」となったようです。この野総と云う風習が「切幣(きりぬさ)」と云う行為として現代に伝わっています。これは麻の繊維を短く切ったものを旅の前に準備し、旅の折々(峠、川の屈曲部、巌など)に、それをその地の神に供えました。その風習を背景にした歌が以下に紹介する集歌2069の歌です。
 旅の先々で神を祀るために準備した「野総」としての「切幣」は、その形状と原料から「切麻」とも表記され、この「切麻」もまた「きりぬさ」と読みます。このような祓串に付けられた麻糸の束、切幣として準備された麻糸の小片などから「大麻」を「おほぬさ」と読むようになったと思われます。苦しいのですが、このように理解しています。

集歌2069 天漢 瀬毎幣 奉 情者君乎 幸来座跡
訓読 天つ川瀬ごとし幣(ぬさ)し奉(まつ)りし心は君を幸(さき)く来(き)ませと
私訳 天の川、渡る瀬ごとに幣を奉じて祈る気持ちは、愛しい貴方が無事でいらっしゃいとの思いで。

 さて、本題である万葉集に戻りますと、「おほぬさ」と云う言葉を使った歌は万葉集にはありません。「幣(ぬさ)」と云うものと、「麻(あさ)」と云うものがあるだけです。一方、時代は下りますが、古今和歌集には「おほぬさ」の詞を使った歌があります。それが次に紹介する歌です。

歌番707 おほぬさと なにこそたてれ なかれても つひによるせは ありてふものを
歌番1040われをのみ おもふといはば あるへきを いてやこころは おほぬさにして

 参考として、古今和歌集 歌番707の「おほぬさ」は京都下鴨神社の夏越神事(矢取り神事)の風景から、人々が競うように奪い合うほどの有名な祓串と云うイメージを示すものですし、歌番1040の「おほぬさ」は祓串に付けられた麻苧の揺らめきをイメージするものとして鑑賞するようです。およそ、この歌番1040の歌か想像しますと、平安時代初期には現代と同じようなイメージの祓串が人々の目には一般的な風景であったことが判ります。
 ここで万葉集を参照しますと、旋頭歌ですが集歌1403の歌に詠う「三幣帛=御幣帛」とは神主が手に持つ祓串を示すのでしょうし、集歌62の歌が示す「幣」は類型歌である集歌3217の歌と同じように神に奉げる「幣物(へいもつ)」でしょう。

祓串の例歌
集歌1403 三幣帛取 神之祝我 鎮齊杉原 燎木伐 殆之國 手斧所取奴
訓読 御幣帛(みぬさ)取り神(みわ)し祝(ほふり)が斎(いは)ふ杉原(すぎはら) 薪(たきぎ)伐(き)り殆(ほとほと)しくに手斧(てをの)取らえぬ
私訳 立派な幣帛を手に取って三輪の神官が祭る杉原よ。薪伐りの人は、神官に見つかって、もう少しのところで手斧を取られるところであった。

幣物の例歌
集歌62 在根良 對馬乃渡 々中尓 弊取向而 早還許年
訓読 ありねよし対馬(つしま)の渡り海中(わたなか)に弊(ぬさ)取り向けて早帰り来ね
私訳 山波が美しい、その対馬への渡りの、その海を司る神に向かって幣物を奉げ向けて無事の渡海を祈願して、そして、倭へと早く帰って来て下さい。

集歌3217 荒津海 吾幣奉 将齊 早速座 面變不為
訓読 荒津(あらつ)し海(み)吾(われ)幣(ぬさ)奉(まつ)り斎(いは)ひてむ早(とく)く速(いき)ませ面(おも)変(かは)りせず
私訳 荒津の海を司る神に私は幣物をささげて、貴方の無事をお祈りしましょう。障害なく早く行き着きなさい。旅でやつれることなく。
注意 原文の「早速座」の「速」は、一般に「還」の誤字とします。ここでは原文のままに訓んでいます。

 さて、神道の景色からしますと、「おほぬさ=大麻、大幣」は次に紹介する古事記の記事が示すように「立派な幣物」の意味であって、「神道の祭祀において修祓に使う道具の一つで、榊の枝または白木の棒の先に麻苧(あさを)をつけたものである」と解説されるようなものではありませんでした。

古事記 仲哀天皇紀に載るい「おほぬさ」に関わる記事;-
<原文>
更取國之大奴佐而(奴佐二字以音)種種求生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚之罪類爲國之大祓而
<訓読>
更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて,種種(くさぐさ)の生剥(いきはぎ),逆剥(さかはぎ),阿離(あはなち),溝埋(みぞうめ),屎戸(くそへ),上通下通婚(おやこたはけ),馬婚(うまたはけ),牛婚(うしたはけ),鶏婚(とりたはけ),犬婚(いぬたはけ)の罪の類を求(ま)ぎて,国の大祓して

 この「取國之大奴佐」の一節は「国中の大幣を集めて」と解釈しますから、歌の解釈で「幣」の漢字を使い「まひ」と読む集歌905の歌が意味するものと同じです。つまり、神に捧げる幣物です。現代の解説に示すような祓串ではありません。

集歌905 和可家礼婆 道行之良士 末比波世武 之多敝乃使 於比弖登保良世
訓読 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)は為(せ)む黄泉(したへ)の使(つか)ひ負(お)ひて通らせ
私訳 まだ稚いので、死出の道を知らないでしょう。神への祈りの捧げ物をしましょう。あの世への使いよ、責任を持って稚き御方を通らせなさい。

 奈良時代までの神道では古事記や古語拾遺で示すように幣物は榊の枝に吊るような形を取るものでありますし、その榊は地上に挿し立てるものです。風景ですと集歌3229の歌に詠われる「五十串=斎串」と同様なものではないでしょうか。神主が手に持ち修祓(しゅばつ)の用具とする風景ではありません。逆に祓串を示す集歌1403の歌の「三幣帛=御幣帛」は非常に特殊な景色となりますし、このような言葉が使われるのは万葉集中で集歌1403の歌だけです。ただ、言葉の意味の取り方が万葉集中唯一ですから、歌の「三幣帛取」の「取」の意味が「手に取り持つ」ではなく、「御幣物を取り供える」の意味である可能性が高いのかもしれません。

集歌3229 五十串立 神酒座奉 神主部之 雲聚王蔭 見者乏父
訓読 斎串(いくし)立て神酒(みわ)据ゑ奉(まつ)る神主部(かむぬし)の髻華(うず)の玉(たま)蔭(かげ)見れば羨(とも)しも
私訳 神聖な神事の御串を立て、御神酒を据えて、神を奉る神主部の人が髪飾りに挿した美しい藤の花房を見ると、美しくて他のことがおろそかになる。

 当然、日本に於いて修祓(しゅばつ)の場面で払子(ほっす)を使うようになるのは奈良時代中期以降のことでしょうし、神主の衣装が律令大系の衣冠に準じて整備されて行くのもまた大宝律令の公布以降のことですから奈良時代中期以降のことになります。
 時代において、神主が衣冠を着用し延喜式神名帳に載るような国家統制のかかる神社の歴史では、奈良時代中期では聖武天皇・光明皇后の影響下、その神社が仏教寺院の支配下に置かれた年代に相当します。個人の想像ですが祓串を使う神道の所作はこの時代に仏教の仕儀を取り入れて整備されたものの一つと考えます。
 この想像を助けるものとして、ウイキペディア・フリー百科事典の解説によりますと次のようになっています。

御幣(ごへい)とは、神道の祭祀で用いられる幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串(へいぐし)に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)ともいう。通常、紙垂は白い紙で作るが、御幣にとりつける紙垂は白だけでなく五色の紙や、金箔・銀箔が用いられることもある。かつて、神に布帛(ふはく)を奉る時には木に挟んで備えていたが、それが変化したのが今日の御幣である。その由来から、元々は神に捧げるものであったが、後に、社殿の中に立てて神の依代(よりしろ)あるいは御神体として、あるいは祓串(はらえぐし)のように参拝者に対する祓具(はらえぐ)として用いるようになった。

 この解説からしますと、拍手を打ち拝礼を行う奈良時代以前の神道所作に比較しますと、ずいぶん、変化したものとなっています。従いまして、奈良時代以前の神道の風景と平安時代以降の仏教・道教の影響を受け変化した神道の風景が一致するか、どうかは不明です。およそ、『万葉集』の歌を鑑賞する時、注意を払うべきものと考えます。どうも、神道儀礼で衣冠で身なりを正し、重要な所作である祓串による修祓や祝詞奏上を行う行為は大陸文化を取り入れた当時としては最新の儀礼であったのではないでしょうか。


 雑談のおまけとして、当然、麻草からの幻覚作用や高揚作用は古代から知られていたようで、麻草に関わる宮中行事での職務は斎部(忌部)一族が所掌することになっていました。儀式に於いて、麻草から作られた麻柄や松明を焚き、香や明かりに使ったとされていますから、体質によっては大量に煙を浴びる可能性のある神事采女や巫女は容易にトリップした状態になったのではないでしょうか。斎部広成が残した『古語拾遺』によると、宮中儀礼で使う佳き麻の育つ場所を探し、徳島の山中へ、そして、関東総国へと一族は移動を行います。
 ここでインターネット上には旧厚生省薬務局麻薬課が作成した「大麻」と云う資料があり、この資料によると良質な麻草は「栃木県」で採取され、西日本のものより遥かに良質であるとされています。ちょうど、『古語拾遺』で示す斎部(忌部)一族の移動行動と一致します。ところが、斎部広成がその『古語拾遺』で嘆くように、平安時代初期までには宮中儀式での神主などの地位や常陸国や下総国での支配権は藤原・中臣氏の下へと遷ります。忌部一族が古代より伝えて来た麻草の効能と秘儀は藤原氏へと遷っていったものと思われます。また、平安時代になって盛んに行われて真言密教護摩法要などでは麻柄等の麻草を焚いたと云いますから、主に上流貴族の女性の為の室内での加持祈祷の儀式は、さて、どんな状況だったのでしょうか。興味があるところです。平安時代の女性文学で、盛んに仏閣を参拝することや加持祈祷を好んだ背景に、このような密教秘儀があるとすると、歴史と当時の女性の好みを見直す必要があるかもしれません。

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