竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 雷丘

2014年06月15日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
雷丘

 大和の国創りは、国の法律である律令や国の歴史書である国書からも整えられて行く。
 葛城大王の近江朝時代、大海人皇子は百済人の余自信や沙宅紹明と共に近江令を作り上げ、中元元年(668)、令二十二巻を公布した。続いて葛城大王の近江朝廷は、中元四年(671)、この近江令に基づいて宮中儀礼での冠位と法度の施行を開始した。

 大海人皇子にとって、律令の制定や改訂は、ある種、ライフワークである。ただ、近江令は百済人が実務の中心を成していた近江朝で制定されたため、宮中で使用する言語などを始め、大和人には使い勝手の悪いものであった。そのため、大海人大王は壬申の乱以降、近江令制定時の背景などから大唐や百済のを写すのではなく、大和に相応しくなるようにと、その近江令の改訂を目指した。
 最初、改訂作業は近江令の策定の中心を為した沙宅紹明にその作業を託した。そして、彼の死後、渡来人の難波連大形や境部連石積、また、大唐の人、続守言や薩弘恪たちにその作業を引き継がせた。
 朱雀十年(681)二月、大海人大王は本格的な大和の律令制定の詔を降した。その作業は皇太子草壁皇子を総裁に川嶋皇子、忍壁皇子、難波連大形、境部連石積、続守言、薩弘恪たちが参加し、作業を行った。
 その朱雀十年四月、大王は律令制定に先立つ次善の処置として近江令の法度を大和の国風に整備・改訂し直した禁式九十二条を定め、官人たちに従わせた。翌朱雀十一年(682)八月、律令制定作業の一環で、近江令の改訂版となる浄御原令の骨格について王族や官人たちの意見を聞いた。律令制定において、途中、大海人大王の崩御があり、作業は遅滞を余儀なくされたが、朱鳥四年(694)六月、後に浄御原令と呼ばれる令一部二十二巻を諸々の司に公布した。そして、この令に基づき、戸籍整備の準備命令を出した。ここに一端の律令整備の完成を見た朝廷はこの浄御原令の正調な漢文での文章作成に労のあった大唐の人、続守言と薩弘恪に恩賞を降した。

 新たに策定を目指したこの新律令は大和の神祀りを背景にする神祇と仏教を統率する僧尼令など、従来の近江令の改訂や大唐や百済の律令の焼き直しと云う形は採れない。そのため、国家の根本たる戸籍整備やそれに続く租庸調の税制と行政を実施するため、朝廷は浄御原令の施行を先行させた。この律令制度の骨格をなす律の制定作業は忍壁皇子を中心に大長三年(700)まで続き、それは大宝律令の形で公布された。

 一方、大海人大王は律令制度の整備に従い、その律令の根幹を成す大王による統治の根拠を帝紀に求めた。そして、大王は朱雀十年二月の律令制定の詔に次いで、三月に帝紀編纂の詔を降した。
 その帝紀の編纂は律令制度の整備と深く関与する。そのため、その編纂作業には川嶋皇子を中心人物に据え、忍壁皇子を補佐とした。ただ、大和の国書とするため正調な漢文による文章作成ではなく大和の新字である真仮名による編纂とし、その文章作成の内記には中臣大嶋を指名した。
 この作業の途中、大海人大王の崩御があった。朝廷は、朱鳥四年(689)六月、その大海人大王の事跡収集と編纂のため撰善言司を置き、伊余部連馬飼、調忌寸老人、大伴宿禰手拍、巨勢朝臣多益須等たちに歴史資料の収集を命じた。さらに国史編纂に試練が襲った。編纂作業の筆頭に命じられた川嶋皇子が朱鳥六年(691)九月に亡くなられた。その川嶋皇子の後は忍壁皇子が継がれた。
 朱鳥七年(692)九月、大海人大王までの帝紀編纂は成った。
 その帝紀編纂の取り纏めを行う内記に命じられていた中臣大嶋が帝紀三巻に系図一巻を併せ、神宝の書四巻として奉呈した。また、帝紀編纂にあたって使用した資料を入れた書箱九箱と編纂原本の証として押印に使用した大王の木印を朝廷に返納した。この神宝の書四巻と称される帝紀は、大海人大王が国語の策定について勅命し朱雀十一年(682)三月に境部連石積たちが奉呈した大和の新字で表記されていた。このため、古事記の序に示すように「全以音連者、事趣更長(すべてを音でもって連なれば、事の趣は更に長く)」であり、また「日下を“くさか”、帯を“たらし”」と読むように、声明専門家の稗田阿禮が歌謡のように本文を誦なければ、その表記において句読点を持たず連続する一行十七文字の漢字だけを使った新字表記は読解困難であるという欠点があった。
 後、この神宝の書四巻は、元明天皇の勅命により改めて稗田阿禮のような声明専門家がいなくても読めるようにと和漢混淆文体で編纂し直し、古事記と称した。

 朱鳥七年(692)八月十七日の早朝、高市大王は雷丘にある忍壁皇子の私邸に御幸された。御幸は朱雀十年来、十年余りの年月を費やし、浄御原令の整備と帝紀の編纂の中心を為した忍壁皇子の労をねぎらうものであった。完成成った帝紀自体は、その発起となった大海人大王の命月となる、この九月に奉呈されることが既に決まっていた。
 その八月十七日(新暦十月五日)早朝、飛鳥の里に昨夜来からの寒気が入って来た。この寒気により里は朝霧に覆われた。忍壁皇子の私邸のある雷丘もまた、朝霧に包まれた。高市大王と天皇菟野皇女は、その朝霧の中、飛鳥浄御原宮から御幸された。
 朝霧は御幸の行列が忍壁皇子の私邸に着く頃には徐々に晴れ上がっていった。当時の飛鳥の里でも、旧暦、八月中旬の朝霧はめったに起きない自然現象であった。その不思議の気象の後、秋晴れの上々の日和となっていく中、忍壁皇子はその正妻、明日香皇女と共に大王と天皇を持てなされた。
 その御幸に同行した柿本人麻呂は、大王を歓待する宴で大王と天皇とに寿歌を奉げた。

王神座者雲隠伊加土山尓宮敷座
訓読 大王(おほきみ)は神にし座せば雲隠る雷山に宮敷きいます
私訳 大王は神でいらっしゃるので、天の雲が隠す雷山の宮殿にいらっしゃる。

皇者神二四座者天雲之雷之上尓廬為流鴨流
訓読 天皇(すめらぎ)は神にし座せば天雲の雷の上に廬らせるかも
私訳 天皇は神でいらっしゃるので、天空の雲の中の雷岳の上にある行宮に宿られていらしゃる。

 柿本人麻呂は、本来、冶金を得意とする技術系の官僚であるが、大和歌の上手から帝紀編纂の歌謡や古歌採取・編集に関わった。その関係で、人麻呂は川嶋皇子や忍壁皇子とも縁があった。
 朱鳥六年(691)九月の川嶋皇子の葬送の儀礼では、人麻呂は川嶋皇子の正妻、泊瀬部皇女に皇子を悼む歌を奉げている。

敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛将相八方
訓読 敷栲の袖かへし君玉垂し越野過ぎゆくまたも逢はめやも
私訳 二人の休む敷栲の床でお互いの衣の袖を掛け合って貴方。野辺送りの葬送の玉垂を身に付けて越野を行列は行きますが、また、再び、貴方に逢えるでしょうか。

 また、石見国から召喚された朱雀八年以降、早い時期に帝紀編纂での歌謡や古歌採取・編集に関わった為か、神話を題材にした大和歌を詠っている。なお、朱雀十年の律令制定の詔に示すように、朝廷は特別に専任された人以外は本業の傍らでの令外の特別な事業への応援を命じている。平安時代後期のように、歌詠いを専業にするような人はいない。人麻呂もまた鋳銭司の長官や木工寮の頭の職務の傍ら、歌謡や古歌採取・編纂の応援をした。

大海候水門事有従何方君吾率凌
訓読 大海(おほうみ)をさもらふ水門(みなと)事しあらば何方ゆ君が吾を率(ひき)凌(の)がむ
私訳 大海を航行する船の湊で、事件が起きたらどこへ貴方は私を連れて逃れるのでしょうか。

風吹海荒明日言應久公随
訓読 風吹きて海は荒るれど明日と言はば久しかるべし君がまにまに
私訳 風が吹いて海が荒れ、明日逢いましょうと云われれば待ち通しいことです。でも、貴方の御気に召すままに。

雲隠小嶋神之恐者目間心間哉
訓読 雲隠る小島の神のかしこけば目こそは隔(へだ)て心隔てや
私訳 雲間に隠れる吉備の小島の神が恐れ多いので逢うことは出来ないが、貴女への恋心は離れてはいません。

 紹介した歌は仁徳天皇と吉備の黒媛との説話を題材にしたもので、その歌の表記方法から朱雀十年年前後の作品と思われる。このように、人麻呂はその歌に対する感性から、神祀りの神寿詞や帝紀編纂での歌謡や古歌採取・編集に携わり、人麻呂の関与の匂いを祝詞や古事記に残した。

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