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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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はじめに

2009年08月01日 | 万葉集 雑記
はじめに

おっちゃんの万葉集とあるように、この「壬申の乱から高市皇子を考える」は、柿本人麻呂が詠う万葉集での歌々を理解するために作った歴史に対するおっちゃんの勉強ノートです。
そのため、ここでのものは、一見、歴史の解説のようですが、おっちゃんの主眼は如何に万葉集の歌を解釈するかが問題ですので普段に目にする飛鳥時代の歴史とは違います。私の飛鳥時代の歴史の解釈の中で、もし、日本書紀と万葉集との間で記述や解釈が矛盾する場合は、万葉集を優先します。また、軍隊やその兵の動員は、普段に行われている古代の歴史の解釈とは違い、現在の大人の常識に従います。つまり、おっちゃんの歴史の解釈では講談や文学としての歴史の解釈とは違い、多くの兵は泥臭く徒歩で行進し、その動員には数ヶ月の期日が必要とする立場です。この視線から、私は日本書紀の記事は尊重しますが、日本書紀そのものは無謬の書のような理解ではなく平安時代の指導者の思想を持った書物としています。そのために、壬申の乱の資料としては唯一に近い「日本書紀 巻二十八の天武天皇紀 上」に対しての従来の解釈や説明では矛盾すると思われる点を多々指摘しています。結果、おっちゃんの壬申の乱に対する解釈は、普段の歴史解釈の立場からは非常に特異なものになっています。
歴史において、壬申の乱がなぜ起きたのか、その背景はどうであったのかは、未だ、総括されていないと思っています。壬申の乱を、大友皇子と大海人皇子との皇位継承戦争と考える人もいますが、さて、そのような単純な話でしょうか。それにそれで、天武天皇以降の天皇制が理解できるでしょうか。壬申の乱の前と後では、大王から天皇への移行が推定されますし、東大寺の大仏を頂点とする金属の精錬・加工を中心とする工業化が急速に進みます。この時代に、大変革の何かがあったはずです。
また、日本書紀によると壬申の乱が勃発する前に、大友皇子の近江朝廷に忠誠を誓う高坂王が倭京に駐屯しています。このとき、吉野の宮に留まる大海人皇子に従う侍者はわずか二十数人の舎人しかいませんから、近江朝廷や大和の氏族の人々が吉野に隠棲した大海人皇子を皇位継承者の一人と認識していた場合、近江朝廷は敵対者として倭京の高坂王の軍で大海人皇子を襲うことはたやすいことです。では、近江朝廷は、なぜ、事前に敵対するが弱体な大海人皇子を襲わなかったのでしょうか。また、逆に壬申の乱が勃発するまで近江朝廷から相手にされないほどの弱体の大海人皇子は、どのようにして、壬申の乱を戦い勝ったのでしょうか。こんな疑問を下に、人麻呂が詠う高市皇子の挽歌から壬申の乱を読み直しています。そして、新たな壬申の乱の解釈から、柿本人麻呂が詠う高市皇子への挽歌を、再度、見つめ直しています。

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