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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 三四四 今週のみそひと歌を振り返る その一六四

2019年11月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三四四 今週のみそひと歌を振り返る その一六四

 先週の後半から防人の歌に突入しています。万葉集では防人を詠う歌はジャンルとしては有名ですが、その大部分はこの巻二十にあり、一部が巻十四の東歌の中で紹介されています。
 最初に防人についての雑談ですが、おおむね防人の人たちは東国から選抜され、静岡県三島市より東の地域の人は、この三島市の三島神社付近に集結し、朝廷は準備した大船で難波の御津へ渡海します。移動期間中の食料等は支給されます。静岡県三島市より西の地域の人は大船の寄港地となる港に集結し、その大船で難波に向かいます。その畿内の難波の御津で各地からの防人の終結を待って、難波の御津から九州北部、山口県西部、壱岐・対馬などの屯田地に向かい、そこで開拓と防衛の任務に就きます。防人は開拓を主とする屯田兵ですから、任期が終わっても本国に帰国することなく開墾した土地に定着する人も現れます。
 もう一つ、古代では近い血縁関係の人たちが戸籍上では「一家=戸」と集団付けられていて同じ家屋で生活する家庭となる集団と、その単位の概念が違います。庶民の家屋は掘っ立て小屋で、その大きさから4~5人程度の居住空間と推定されていますが、戸籍の一戸は平均で25人ぐらいの集団です。つまり、血縁関係の4~5家族で戸籍上の一戸を形成していたようです。社会制度や戸籍での「一戸」と一家庭とは違う概念・規定ですから、ここを確認しないと防人や運脚の割り当てに対する影響評価が大きく変わります。
 その防人は任期3年で、定員は2000人程度とされ、10戸で1人ぐらいの比率で割り当てられたようです。里の若者の中から20人に1人ぐらいの選抜の雰囲気ですから、防人に選抜されたからと云って悲壮感を持つような話ではありません。里の顔見知りの人たち数人はいますから全くの孤独でもなく、食料・医療・衣服・耕作地は支給です。自費ではありませんから、給与支給の国営訓練所に入所したようなものです。ただし、この防人には郡毎に先々の役所とのやり取りを行うために世話役となる人物が同行しそれぞれの郡の防人たちの世話を焼きます。この世話役は漢字で書かれた指示書などが読め、若い防人たちを管理しますから、中年の里長クラスの人が任命されます。この人たちが万葉集の歌に現れる「國造丁(部隊長級)」、「助丁(副官級)」、「火長(隊長級)」、「帳丁(事務官)」、「上丁(曹長級)」などの肩書を持つ人たちです。この人たちは確実に里に子を産んだ妻・妾や親を残して来ますし、それぞれの里での役務や利権関係を持つ人です。
 立場・立場で人の感情は違いますから、防人とは何かを無視して、最初に「虐げられていた」、「悲惨であった」と結論を付けて鑑賞すると、妙なものになります。それと、地方の農民階級の人が自在に和歌を詠う能力があったかは疑問です。定型の歌や言葉を紡いで歌を詠ったかもしれません。

例一:船の整備を詠う似たような発想の歌:
集歌4329 夜蘇久尓波 那尓波尓都度比 布奈可射里 安我世武比呂乎 美毛比等母我母
訓読 八十(やそ)国(くに)は難波に集ひ船かざり吾(あ)がせむ日ろを見も人もがも
私訳 多くの国の人々が難波に集合し、その船の整備を私がする、そのような私の日々を見る人がいて欲しい。
左注 右一首、足下郡上丁丹比部國足
注訓 右の一首は、足下郡の上丁(かみつよぼろ)丹比部(たぢひべの)國足(こくたり)
注意 「足下郡」は神奈川県足柄下郡です

集歌4330 奈尓波都尓 余曽比余曽比弖 氣布能日夜 伊田弖麻可良武 美流波々奈之尓
訓読 難波津(なにはつ)に装(にそ)ひ装(にそ)ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
私訳 難波の湊に船を装い装いて、今日の日こそ、出航して去っていく。見送る母を無しにして。
左注 右一首、鎌倉郡上丁丸子連多麿
注訓 右の一首は、鎌倉(かまくらの)郡(こほり)の上丁(かみつよぼろ)丸子(まろこの)連(むらじ)多麿(たまろ)
注意 「鎌倉郡」は神奈川県横浜市から鎌倉市までの一帯です。


例二:防人の歌と人麻呂歌集との類型+同じ口調の歌
集歌4337 美豆等里乃 多知能已蘇岐尓 父母尓 毛能波須價尓弖 已麻叙久夜志伎
訓読 水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき
私訳 水鳥が旅立つようにあわただしく父母に物も語らずやって来て、今、悔しいことです。
左注 右一首、上丁有度部牛麿
注訓 右の一首は、上丁(かみつよぼろ)有度部(うとべの)牛麿(うしまろ)

集歌503 珠衣乃 狭藍左謂沉 家妹尓 物不語来而 思金津裳
訓読 玉衣(たまきぬ)のさゐさゐしづみ家し妹に物言はず来に思ひかねつも
私訳 美しい衣を藍染めるように藍瓶に沈める、そのように心が沈み、私の妻である貴女を後に置いて声を掛けずに出かけて来てしまって、後悔しています。

集歌3769 奴婆多麻乃 欲流見之君乎 安久流安之多 安波受麻尓之弖 伊麻曽久夜思吉
訓読 ぬばたまの夜(よる)見し君を明くる朝(あした)逢はずまにして今ぞ悔しき
私訳 暗闇の夜の夢に見る貴方を、夜が明ける日中は遠く離れて住んでいるためにお目にかかれないままにして、今はそれが残念です。

 東歌から考えますと、東国の防人を引率するような里長クラスの人々に柿本人麻呂歌集が知られていたことは確実です。それに近々の時代の中央で詠われた歌が加わり、どのように和歌を詠うかは一定の識字階級には知識として広がっていたようです。
 奈良時代、里の識字階級は運脚などの御用で毎年に都と往復しますし、祈年祭などの神事にも大きな郡では祝として出席します。また、3年に1回は防人の御用もあります。現代人が想うより、奈良時代の人たちは中央との交流頻度は高かったと考えます。

 今週も単なる与太話に終始しました。与太話ですから防人の解説も、話半分くらいで受け止めてください。
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