竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 三一〇 今週のみそひと歌を振り返る その一三〇

2019年03月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三一〇 今週のみそひと歌を振り返る その一三〇

 今週も巻十四 東歌の鑑賞です。
 さて、今週は東歌での推定の発音で遊んでみたいと思います。ただし、日本国内の研究者の主流が推定する古語発音と諸外国での中国語古音発音研究から推定する古語発音は違います。中国語古音研究において諸外国では広韻から隋唐音(前期中古音)を推定しますが、日本では韻書から漢音(中国語前期中古音)を推定します。
 標準的に中国や欧州では秦・漢時代の中国語発音を上古音(古漢音)、隋・漢時代のものを前期中古音(隋唐音)、中期唐・五代時代を後期中古音、宋・元時代を近古音(宋音)と区分します。他方、日本では平安時代から鎌倉時代の留学僧が区分したものから中国語発音を区分します。そのため、日本では宋・元時代の近古音(宋音)を唐音と称したため、それ以前の中国語を漢音と区分せざるを得なくなりました。それで、中世語である宋音が日本では唐音、隋唐音が日本では漢音、秦・漢音が日本では古音と区別するようです。なお、続日本紀の改訂に影響を与えた百済・高句麗系の帰化知識階級は伝統的に漢・魏・東晋王朝を正統と考え、隋・唐は北方民族出身の王朝を理由に正統とはみなしていません。このため、中国大陸をすべて漢帝国のような表現を使用した可能性があります。この場合、隋・唐朝廷であっても言葉は漢語と云うことになり、唐音を正音とは認めたくないという心理が現れます。なお、高句麗を経由してもたらされた三国時代の呉から東晋時代のものを日本では呉音と称します。
 一方、奈良時代の大和系貴族は遣唐使で唐に赴いたとき、高級官僚の職に就いたものや宮廷で優美に振舞ったと伝わる人物がいますから、隋唐音で流ちょうな会話は成立していたと考えられます。また、この時代、音韻書として切韻や唐韻は大和にもたらされていましたから朝廷の人々は隋唐音を理解していたと考えられます。

 馬鹿話はさておき、現在、中国語前期中古音を解説する『切韻』や『唐韻』は失われた書籍となっており、その『切韻』や『唐韻』の流れを汲む『広韻』が伝わるだけです。そのため、この広韻が中国語前期中古音を研究する時のバイブルとなっています。ただし、問題は『切韻』、『唐韻』、『広韻』は漢字の発音比較で成り立っていますから中国語中央語を日常的に会話に使用している人でなければテキストとして使用できません。また、そもそもの『広韻』は唐音で漢詩(唐詩)を作詩するという伝統文化において唐詩が要求する押韻ルールでの正しい漢字の韻を規定し、科挙試験や宮中での公式な場面で詠われる唐詩の韻(発声)が民族や地域差による異なる発音でなされるのを正し混乱を防ぐものです。つまり、宋の時代、唐音に対し複数の発音やそれぞれに正統性議論があったと云うことが背景にありますから、どの発音が唐音として伝統で正統かと云う議論に対し宋と云う国家としての集大成が『広韻』です。当然、あれこれと別な書物を引っ張り出して、宋時代に立ち戻り、発音の議論を提起することは可能ですが、どの時代でも言葉は厳密に一つに集約しませんから研究者の可能性での遊びにしかなりえません
 一方、日本では諸般の事情で鎌倉時代以降の伝統として『唐韻』や『広韻』を唐詩押韻研究には使用しないことになっています。音韻を五十音図のような方法で示したものを使い、その代表的な図解が『韻鏡』です。なお、『韻鏡』は『広韻』よりも古い時代に編まれたことになっていますが後の時代の『広韻』の影響を受けた内容があると評価されていることと、示すものが前期中古音だろうとは思いますが、それがいつの時代のどの民族で、また、個人単独なのか、公式な中央語なのかは不明です。そこが『広韻』は国家が定めた中央語の前期中古音を示すものとの違いがあります。
 こうした事情を踏まえて、酔論を展開します。
 江戸時代中期以降に万葉仮名で「努」、「怒」の文字をどのように訓じるか、また「野」の文字はどうなのかと云う問題があり、「努」、「怒」の文字は「ぬ」であって「の」ではないと云うのが標準的な解釈です。山上憶良は遣唐使の書記(通訳)を務めたと推定され前期中古音である隋唐音を十分に理解していたと考えられています。一方、和歌発音で「の」となるべきところに万葉仮名の「努」や「怒」を使う表記スタイルから日本紀と同様な仮名文字での独特な使用方法があったと解説します。この議論のベースは江戸時代から昭和中期と云う時代性から『韻鏡』による中古音の復元です。『広韻』からの中古音ではありません。
 ところが、『広韻』にその音韻を探りますと、「努」、「怒」の文字の発音はnuoやnoであって、「野」はʑi̯woやziです。『広韻』が隋唐音を示し、同時に奈良時代の人たちが漢字に借音をするときに隋唐音に従っていますと、奈良時代人と平安時代最末期・鎌倉時代人とで理解する万葉仮名の発音が違う可能性があります。同じように奈良時代人とそのような議論に参加した昭和中期までの人とで訓じが違う可能性があります。
 このような与太話を踏まえて今週の歌を訓じたものが、次の集歌3423と集歌3425の歌と集歌3424の歌です。特に集歌3424の歌の初句の「野」に「ゾ」の訓じがあるとしますと、歌の雰囲気は大きく変わる可能性があります。

集歌3423 可美都氣努 伊可抱乃祢呂尓 布路与伎能 遊吉須宜可提奴 伊毛賀伊敝乃安多里
訓読 上野(かみつけ)の伊香保(いかほ)の嶺(ね)ろに降(ふ)ろ雪(よき)の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり
私訳 上野の伊香保の嶺に降る雪がなかなか流れ行かないように、通り過ぎていくのが難しい。愛しい貴女の家のあたりは。

集歌3425 志母都家努 安素乃河泊良欲 伊之布麻受 蘇良由登伎奴与 奈我己許呂能礼
訓読 下野(しもつけ)の安蘇(あそ)の川原よ石踏まず空ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心告(の)れ
私訳 下野の安蘇にある川原の石を踏むことなく空を飛ぶようにやって来た。さあ、お前の気持ちを云ってくれ。

集歌3424 之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟
訓読 下野(しもつけ)ぞ三毳(みかも)の山の小楢(こなら)のす真妙(まぐは)し子ろは誰が笥(け)か持たむ
私訳 ここは下野ぞ、その下野にある三毳の山に生える小楢のように、かわいいあの娘は、将来、誰の食事の世話をするのだろうか。

 加えて歌は今週のものだけではありませんが、次の三首の「之」の文字の訓じを見てください。すべて、万葉仮名の訓じである「し」であって、平安最末期から鎌倉時代以降の漢文訓読法からの慣用訓「の」のような訓じではありません。なお、鎌倉時代になると万葉集の歌を正しく訓じるよりもその時代の和歌として美しく詠うことを優先にしていますから、正確に訓じ意味を解釈するのは野暮かもしれません。

集歌3544 阿須可河泊 之多尓其礼留乎 之良受思天 勢奈那登布多理 左宿而久也思母
訓読 安須可(あすか)川下(した)濁(にご)れるを知らずして背ななと二人さ寝に悔(くや)しも

集歌 3578 武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之
訓読 武庫の浦の入江の渚鳥(すどり)羽(は)ぐくもる君を離(はな)れて恋に死ぬべし

集歌 3617 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由
訓読 石(いは)走る瀧(たき)もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京し思ほゆ

 従来の万葉集での万葉仮名の発音根拠は主に『韻鏡』からのものでしたが、平成の時代になってから国際的に研究が進んだ『広韻』を基準にする人も増えてきたようです。ご存知のように弊ブログは『広韻』を基準にしている分、従来の訓じと違う場合がありますし、読解も順じて変わります。ネットなどに公表されているものからしますとHP「漢典」経由で『広韻』にアクセスするのが使い勝手上、非常に簡便です。それに『広韻』を使って西本願寺本万葉集を鑑賞しますと、すべてが読解可能で難訓歌は消滅します。
 今週も与太と馬鹿話に終始しました。反省です。

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