竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百六七 維摩講の歌

2016年04月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六七 維摩講の歌

 一度、「仏教と性の馬鹿話」で万葉時代での社会と仏教の関係、その仏教の万葉集への影響について遊びました。今回は直接に仏教に関わる歌で遊びます。その直接に仏教と関わるとして万葉集を探しますと、維摩経に関係する歌があります。それが巻八に載る集歌1594の歌です。今回はこの歌に注目し、その周辺を遊んでみたいと思います。
 次に紹介する集歌1594の歌は万葉集に掲載する順からしますと、天平十一年冬十月に催された維摩講で詠われた歌となります。

佛前唱謌一首
標訓 佛の前で唱(うた)ひたる謌一首
集歌1594 思具礼能雨 無間莫零 紅尓 丹保敝流山之 落巻惜毛
訓読 時雨(しぐれ)の雨間(ま)なくな降りそ紅(くれなゐ)に色付(にほへ)る山し落(ち)りまく惜しも
私訳 時雨の雨よ、絶え間なく降るでない。雨に打たれて、紅に染まる山の紅葉が散るのが惜しい。
右、冬十月皇后宮之維摩講、終日供養大唐高麗等種々音樂、尓乃唱此歌詞。弾琴者市原王、忍坂王(後賜姓大原真人赤麻呂也) 歌子者田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連長谷等十數人也。
注訓 右は、冬十月の皇后宮(きさきのみや)の維摩講に、終日(ひねもす)大唐・高麗等の種々(くさぐさ)の音樂を供養し、尓(しかるのち)の此の歌詞(うた)を唱(うた)ふ。弾琴(ことひき)は市原王(いちはらのおほきみ)、忍坂王(おさかのおほきみ)(後に姓(かばね)、大原真人赤麻呂を賜へり) 歌子(うたひと)は田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連(おきそめのむらじ)長谷(はつせ)等(たち)の十數人なり。


 ここで、集歌1594の歌の標題に使われる「佛」と云う漢字文字に注目しますと、万葉集ではその「佛」と云う文字に関係する作品が全部で五作品あります。逆に四千五百首ほどの作品を集めた詩集であっても特定の「佛」と云う文字に注目すると五作品しかないとも指摘できます。この背景から表面上の表記だけに注目しますと「万葉集には仏教の影響がみられない」と云う前近代の論評の論拠の一つとなります。
 先に「佛と云う文字に関係する作品は五作品」と紹介し、「五首」と紹介しなかったのには理由があります。実はその内の二作品は山上憶良の漢詩文(「沈痾自哀文」と「悲歎俗道、假合即離、易去難留詩」)に含まれるもので和歌の作品ではありません。他方、残りの三作品は和歌ですので三首として数えることが出来るものです。その和歌としては、すでに紹介した集歌1594の歌と次に紹介する巻十六に載る集歌3841の歌、集歌3849の歌及び集歌3850の歌となります。このように仏教と云うものが身近であった奈良時代を代表する文学作品である万葉集としては載せる「佛」と云う文字関連の作品は非常に少ないものとなっています。

<参考資料一>
大神朝臣奥守報嗤謌一首
標訓 大神朝臣奥守の報(こた)へて嗤(わら)ひたる謌一首
集歌3841 佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼
表歌
訓読 仏造る真朱(まそ)足らずは水渟(た)まる池田の崖(あそ)が鼻の上(うへ)を穿(ほ)れ
私訳 仏を造る真っ赤な真朱が足りないのなら、水が溜まる池田の崖のその先の上を掘れ。
裏歌
訓読 仏造る真朱(まそ)足らずは水渟(た)まる池田の朝臣(あそ)が鼻の上(うへ)を穿(ほ)れ
私訳 仏を造る真っ赤な真朱が足りないのなら、鼻水が溜まる池田の朝臣のその鼻の上を掘れ。

<参考資料二>
厭世間無常謌二首
標訓 世間(よのなか)を厭(いと)ひ、常(つね)無き謌二首
集歌3849 生死之 二海乎 厭見 潮干乃山乎 之努比鶴鴨
訓読 生き死にし、二つの海を厭(いと)はしみ潮干(しほひ)の山を偲ひつるかも
私訳 生まれ、死ぬ。この二つの人の定めの世界を厭わしく想い、海の水が引ききって再び潮が満ちる、そのような絶え間ない変化の世界から不動の山を慕ってしまう。

集歌3850 世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞
訓読 世間(よのなか)し繁き仮廬(かりほ)に住み住みに至らむ国したづき知らずも
私訳 この世の煩わしい仮の人生に住み暮らしていても、やがて訪れるであろう死して旅行く国の、そこでの暮らしぶりすら知ってはいない。
右謌二首、河原寺之佛堂裏在倭琴面之
注訓 右の謌二首は、河原寺の佛堂の裏(くりのうち)の倭(やまと)琴(こと)の面(おも)に在りと。
注意 左注の「河原寺」は飛鳥にあった飛鳥浄御原宮時代を代表する官制大寺ですが、平城京遷都でも移転することなく、かの地に残り、平安時代には衰微し、廃寺となっています。従いまして、「佛堂裏在」は「大寺が持つ仏具庫裏(くり)に保管してある」と解釈します。また、集歌3849の歌の初句及び二句の言葉「生死之二海乎」は次の華厳経の一節に由来すると指摘されています。
<補足資料:華厳経抜粋>
復與五百大聲聞倶。悉覺眞諦證如實際。深入法性離生死海。安住如來虚空境界。離結使縛著一切。遊行虚空。於諸佛所疑惑悉滅。深入信向諸佛大海。


 紹介しました和歌でも歌には特徴があります。仏教の理念を正面から見据えた集歌3849と集歌3850の歌があれば、一方、仏教仏像を単なる物と捉えたような駄洒落を詠う集歌3841の歌、仏前で詠ったと称しますが仏教とは直接には関係しないと思われる集歌1594の歌があります。この姿もまた仏教信心と万葉集の歌と云う観点からしますと、仏教の影響が薄いとするところかもしれません。

 さて、集歌1594の歌に戻りますと、歌の標題「佛前唱謌」や左注「終日供養大唐高麗等種々音樂、尓乃唱此歌詞。」からしますと、仏教に関係する歌の様に思えます。ところが、どうも、背景からしますと、そうでないかもしれません。
 歌の左注に示す「皇后宮」とは聖武天皇の皇后安宿媛(仏名、光明子)のことで、歴史では光明皇后と称されます。そして、歌の左注からしますと、光明皇后はそうとうな派手好きだったと推定されます。本来の仏教を真剣に信仰しますと、仏教教義では歌舞音曲は禁止事項ですので仏事では読経が主体になるべきです。たとえ呪術を行う密教仏教でもあったとしても高野山の戒律が示すように法会で呪法秘儀の行法を行ったとしてもそこにおいて奏楽器や鼓などを使用した音曲は行わないはずです。そのため、真言密教などでは読経が声明音楽へと変化し、また、護摩壇供養のなどの呪法秘儀の行法も形式美を持った仏教芸術へと進化を遂げています。まだまだ、戒律に対して砕け始めた平安後期から鎌倉時代ではありません。天平と云う奈良時代、戒律護持のために大唐から戒律の専門家である鑑真を招へいしようとする時代です。おおよそ、声明や呪法秘儀は仏教が教義において歌舞音曲が禁止されていることからの進化なのですが、対して、集歌1594の歌の解説からしますと光明皇后は仏供養として大唐や高麗などの異国情緒豊かないろいろな音樂を演じさせています。
 歌の左注からしますと、講の式次第において、光明皇后が主催した維摩講(後の維摩会?)では禅師による法要(講義)の後に琴などの楽器や歌声などにより大唐や高麗などの異国情緒豊かないろいろな音樂を演じ仏にささげた、その後、集歌1594の和歌を詠いその講を閉めたと思われます。
さらに歌が詠われた時期と光明皇后と云うキーワードから、この維摩講と云う法会の禅師に大唐留学僧である玄の存在が現れて来ます。玄は天平九年(737)には僧正の身分となり、皇室の仏教施設である内道場の禅師になるとともに、このころ、藤原不比等の旧邸宅であり、それを引き継いだ光明皇后が持寺に改造して天平八年以前に成った海龍王寺(隅寺)の初代住持に就任したと伝承されています。従いまして、維摩講の禅師はこの玄僧正が執ったと推定して良いのではないでしょうか。
 歌の左注から光明皇后はそうとうな派手好きとしましたが、維摩講の禅師であろう玄僧正のアドバイスによっては、歌舞音曲で仏を供養することをしなかったかもしれません。およそ、光明皇后も玄僧正も確信を持った派手好きだったと思われます。

 ここで、先祖供養としての歌舞音曲ではないかと疑問を持つお方に対して、少し、雑談をしたいと思います。
 さて、集歌1594の歌の発端となった維摩講を開設しますと、維摩講は維摩経を講ずる法会のことです。その法会の中心となる維摩経は在家の長者・維摩詰の病気に際して見舞いに行った文殊菩薩と維摩詰の問答を下にしたもので、およそ、維摩経は在家の長者である維摩詰による「空」の境地を説いた大乗仏教系の仏教経典なのです。
 日本での維摩講は、古く、近江朝時代に藤原鎌足によって創始され、毎年十月に行われたと『藤氏家伝・鎌足伝』によって伝わっています。また、『興福寺縁起』によると鎌足が病に際したとき、維摩経「問疾品(もんしつほん)」を誦ませたところ、たちまち病が平癒したそうです。なお、現代に伝わる『藤氏家伝・鎌足伝』は後期平城京時代から平安時代ごろの知識で記されたものが含まれていますし、『興福寺縁起』には治承四年十二月二八日(1181)の平重衡ら平氏の軍勢による南都焼き討ち事件に端緒を持つ南都寺院復興勧進運動の中で生まれた新しい伝承が、ある程度含まれているとされています。従いまして、どこまでが奈良時代の真実かは不明です。特に光明皇后に関係する伝承の多くは南都寺院復興勧進と云う募金活動の中で生まれた創作説話が由来であって、史実的な信頼性は無いとされています。およそ、現代に伝わる光明皇后伝説は信仰として扱う範疇のものです。
 光明皇后伝説を棚上げとしますと、その維摩講は歴史の中では呪術的な病人祈祷として始まったとされ、維摩講と病気平癒の結びつきは、少なくとも八世紀段階には成立していたと近世までの歴史研究者間ではそのように認識されていたと推定されます。なお、本来の維摩講は維摩会(ゆいまえ)と云う法会を行う会合であって、そこでは法説を聞いたり、法解釈を討議したりする仏法学問研究の場です。呪術的な病人祈祷を行うものではありません。少なくとも奈良時代の宮中の御斎会、興福寺の維摩会、薬師寺の最勝会を「南京三会(なんきょうさんえ)」と称した平安時代初期までの伝承ではないと思われます。これ以降の平安後期から鎌倉時代に生まれた伝承でしょう。
 ただその伝承では、維摩講は藤原鎌足によって創始されたとされ、鎌足の死後、すぐに講は中断、ところが時代が下って慶雲二年(705)七月の藤原不比等が病臥不豫をきっかけに不比等の「誓願」により再興したと伝承します。さらに伝承では養老四年(720)の不比等没後に維摩信仰は再び衰えたが、天平五年(733)三月になって光明皇后の自己の病平癒への「重願」で再再度、復興したとします。その後、天平後期に光明皇后と藤原仲麻呂によって財源が強化され、維摩講は藤原氏による法会から、国家の関与する法会へと発展したと伝えます。それでも奈良時代の興福寺の維摩会は学僧の見識などを確認し、高僧への登竜門的な場であって、歌舞音曲の世界ではありません。
 およそ伝承からしますと、飛鳥から奈良時代の病気平癒にかかわる維摩講は特定の権力者の個人的な嗜好に由来を持つようで、社会的な民衆信仰に由来するものではなかったようです。またそれを裏付けるように、歴史において藤原鎌足は近江朝時代に山科寺を興し、彼の死後、飛鳥浄御原宮遷都に合わせ、山科寺は厩坂寺として大和に移り、さらに平城京遷都では興福寺に移ったとされます。この山科寺、厩坂寺、興福寺の流れにおいて、その宗派は法相宗であったとされています。それで興福寺は法相宗大本山興福寺と称します。この法相宗は日本へは留学僧である道昭、智通、玄たちによって伝えられたとします。
 一般には天平五年になって皇后宮での行われた維摩講の端緒は、光明皇后による藤原鎌足七十回忌の供養と近代では考えられています。別案としては同年三月が光明皇后の母である県犬養橘三千代の四十九日にあたり、同五月には光明皇后自身が「枕席不安」の状態にあるため、母にちなむ追善法要と皇后自身の病気平癒も目的であったとも推定されています。ただし、当時は死後四十九日で成仏するとされ、よほどの悪行を積んだ人でない限り、この世から縁が切れ、あの世で仏縁を結ぶとされています。藤原鎌足七十回忌説と云うのは平安時代中期以降の神仏混淆を悪用した仏教界で生じた「喜捨」と云う集金を目的としたものが根拠のようですので、さてはて、どうでしょうか。
 参考として、飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と云う遍歴を持つ平城京にあった道昭が法相宗を説いた元興寺は平安時代には興福寺の支配下に組み込まれています。なぜ、この元興寺を紹介したかと云いますと、飛鳥時代の斉明天皇四年(658)に「飛鳥寺で福亮が維摩経を陶原に講ずる」という記録を持って維摩会の起原とされているからなのです。負け犬の遠吠えではありませんが、飛鳥寺の大切な歴史は、藤原氏と興福寺に乗っ取られたようです。

 今回も万葉集からの脱線がひどいことになりました。反省する次第です。

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