桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

検察意見書批判第7弾

2008-06-18 | Weblog
検察の実態を知らない人には、Oさんの証言を無視する検察の態度は信じられないだろう。でも、知っている人には、さもありなんかな。
Oさんの証言では、もっと呆れる事実がある。
Oさんの証言調書は、30数年ぶりに土浦での再審で開示されたが、その日付が「昭和42年10月16日」なのだ。そして、その調書には「8月30日以来、たびたび申し上げている」旨のことが書かれているのだ。
それで弁護団が「たびたび申し上げていると言う、事件発覚の8月30日からの調書を公開して」と求めたところ、例の如くに「不見当」との回答なのだ。無いと言う。
あなたは、この検察の回答を信じますか?
彼女は被害者の家に寄ろうとして目撃しているのだ。当時、34歳。警察が聞かない訳がない。調書を取らない訳がない。訳があるとすれば、それを公開できないという訳。多分、事件発覚直後のOさんの目撃談には、もっともっと我々を犯人に出来ない事実が書かれているのだと思う。だから、俺が嘘の自白をさせられた翌日の物しか開示できないのだろう。
検察の汚さは、これだけではない。俺たちを有罪とした判決には「7人の目撃者、状況証拠がある」と書かれている。ところが、赤根さんの書いた意見書には目撃証人は6名しかいない。6名の目撃によって杉山と桜井は犯人だと言う。Oさんの息子、Aさんが消えているのだ。
Aさんは裁判で証言している。母親と違い、布佐の親戚に行ったという時間差があるために、我々を目撃していても不自然ではないと判断したから証言させられたのだろう。そのAさんなのに、なぜ、赤根さんの意見書では消したのか。それは第6弾批判に回答不能だからだと思う。
前回に書いたように、Oさんが事件当夜、Мさん宅に野菜を買いに行き、Gさんに会い、当主の帰りを待ち、テレビを見た事実は揺るがない。検察が開示を拒否する、「不見当」と称する、自転車を借りたHさん、立ち話をしたGさん、野菜の買い出し先のМさんらの調書が日の目を見たならば、この事実は明明白白になる。しかし、明確になって我々の無実を証明されては困るから、何があっても検察は出さない。それらの証拠を見ている検察官が、誰よりも我々の無実を知っている。
これが布川事件の真実なのだ。
俺は赤根さんに言いたいよ、法曹家として、人間として恥ずかしくないのかなあ。検察官になったのは、こんなことをするためなの?貴女の法曹家としての能力を使う道を誤っているのではないだろうか。検察官を辞めて、ぜひ冤罪で苦しむ者を助けて欲しいと思います。もしかすると、この意見書は前任者などが書いて、赤根さんは印鑑を捺しただけかもしれない。今に繋がる自分の人生に確信を持つし、誰をも恨まない俺は、決して、貴女だけを責めるつもりは無いけれども、この意見書は、本当にお粗末だよ。検察庁は、本当に恥ずかしい、お粗末すぎるよ。
多分、これで検察意見書批判は終わるだろうが、書いていて空しい思いになったな。こんなに歴然とした嘘がまかり通る裁判と検察。そして、今も高裁の判断を不安も含めて待たなければならない現実。日本の司法は狂っている。俺は、この現実が変わって欲しいと祈りたいよ。いや行動するしかないけど、証拠を隠したら犯罪者、証拠をねつ造したら犯罪者、当たり前に裁かれなければおかしい。俺たちは、もう41年だよ、犯人にされて。その原因が、警察の証拠のでっち上げと検察の証拠隠しにある。こんなことが許されて良いはずはない。俺は、検察が犯罪者と認めるまで、声を上げる。上げ続ける。裁判員制度が始まるとき、裁判が自分たちのものになる国民の皆さんの良心とともに!

検察意見書批判第六弾

2008-06-18 | Weblog
布川事件には目撃証人がいる。ところが、この証人を検察は無視する。
なぜか?
我々を犯人に出来なくなるためなのだ。検察官が無実を証明するから証人を無視するなんて、本来、有ってはならないのだけれども、日本の検察は平気の平左!
今日は、この証人について書く。
事件当日、被害者宅から自転車で1分くらいのところに住むOさんは、布川東地区のМさん宅(Oさん宅から自転車で7~8分)に、息子Aさんと野菜を買い出しに行った。荷物が多いために自宅前親戚のHさん宅で自転車を借りた。Hさんから用事を頼まれて利根川を挟んだ布佐町へ行った息子Aさん。母親のOさんは、一人でМさん宅に向かった。そして、まず、被害者宅に寄って自宅の戸の動きが悪いのを修理して貰おうとしたらしい。
被害者宅の勝手口が見える辺りまで来たとき、勝手口で被害者と話す男がいるのを見て、客がいるのでは寄らないで行こうと考えて家の前に来ると入口に、もう一人が立っていた。顔が判り、近所のkさんだったとか。なぜ若いkさんが大工と言われた被害者宅に用事かと思ったとも言う。
その後、東地区で出会ったGさんに借りていた千円を返して立ち話した。
Мさん宅に着いたが、当主が帰っていなくてテレビを見ていたら「ニュース解説、7・30」の文字を見た、と証言する。
このOさんの証言を検察官は35年も隠し続けた。
このOさんの証言を分析すれば、彼女が被害者宅前を通過した時間は判る。7時30分は動かない。そこから自転車の時間、Gさんと立ち話をした時間、テレビを見て当主の帰りを待った時間などを引いて行けば良い。どう考えても7時15分より遅くはなるまい。
ところが、我々は、当日は東京にいた。嘘の自白でも東京方面からの成田線で布佐駅に帰ることになるのだが、その時刻が布佐駅着7時4分だったかなのだ。警察が検証をしていて、布佐駅から被害者宅までの徒歩時間は17分。どう考えてもOさんは通過している。彼女が目撃したのは我々ではないとなってしまうために、検察官は隠した。そして、今でも無視する。その理由は「kさんが行っていないと言うから、Oさんは嘘を言ってる、信じられない」ということらしい。
勿論、見間違い勘違いはする。でも、彼女がМさん宅に行き、野菜を買ったのは事実。それに伴う体験に誤りはない。検察は、関連するМさんの参考人調書を含めて、今でも隠し続けている。これは犯罪だ。
余りに長くなったので、以下は第7弾に書くことにしよう。

死刑

2008-06-18 | Weblog
また鳩山が人を殺したね。法治国家、正義の行使。人を殺したのだから当然の応報。色々な考えがあるけれども、犯罪者と同じに人を殺すことに変わりはない。
俺は人殺しは反対だ。
日本は人を大事にしない国家だよね。まるで人の上に国家があるみたいで、人は国家の僕で道具のように扱われている。石原慎太郎、悪しき存在は子供を産まなくなったバハァとか言ったけど、後期高齢者医療制度も、同じ思想じゃないかな。自分の意に添わない存在は否定する。嫌な考えだと思う。人として産まれれば、その才能に差こそあれ、人としての価値に差など無い。ましてや、年齢によっての価値差などもあるまい。どのような人生を歩もうとも、加齢は社会に貢献したということ。却って尊ばれて良いのではないだろうか。
人を大事にしないということは命を粗末にすることだ。日本という国家が、日本という国土に産まれた者、そこに住む者、日本国家を形成する人は、どのような人でも命を守る、大事にする。命を守られ、大事にされる。それは犯罪者でも同じ。そういう思想を明確にして政治をした方が、今の死刑制度よりも犯罪抑止になることだろう。
どのような政治思想を以てしても、残念ながら人間と、その社会の業は犯罪者を作るだろうが、今よりはマシな社会になると思うのだが。