桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

叫び

2008-06-29 | Weblog
大崎事件という冤罪がある。ありもしない選挙違反事件をデッチ上げて全国にその名を轟かせた鹿児島県の志布志警察署が29年ほど前に作った冤罪だ。
この事件で犯人にされた一人の原口アヤ子さんは、今81才。無実を晴らさなくては死ねないと頑張っておられる。証拠も自白も無しに、共犯とされた人の嘘の自白で有罪にされたのだから、本当にひどい。
昨日は、その大崎事件の総会と原口さんの闘いを演劇にしたものが上演された。一度は再審開始決定がありながら、それが取り消されて第二次再審請求をしょうという今、彼女の味わった辛酸が、迫真の演技によって鋭く表現されていた。同じ思いを知る者として、その叫びに共鳴して涙が零れた場面が数回。原口さんに一日も早く無罪判決がありようにと祈る思いになった。
この大崎事件は犯罪では無くて自転車で深いコンクリート用水路に落下した事故なのだ。それを手荒く扱って殺したと勘違いした者がいて、被害者の家の堆肥の下に隠し埋めたから事件にされてしまった。自宅の堆肥下となれば疑われるのは家人。原口さんと夫など、三人の犯行とされた。
被害者とされた人は、用水路傍で下半身を露出してずぶ濡れで寝ていたのが目撃されている。それが不思議と思われないような大酒飲みだったらしい。
大崎事件にも真相を隠す不正がある。道端で寝ていた「被害者」の目撃情報が、たった一人のモノしか提出されていないのだ。もし目撃情報の総てが開示されたならば真相が見えるに違いない。
「被害者」を自宅に連れ帰った二人は、通夜の席で泣いて放った言葉があるそうだが、残念ながら何も話さずに他界したそうだ。
間近くなった布川事件の決定は、かなり重要な位置を占めそうだ。勝って証拠開示に道を開いて、原口さんを早く勝たせたいと、強く思った一日だった。

幸せ

2008-06-29 | Weblog
幸せになりたい!なんて言葉を聞くけど、幸せにはなれないよね。
幸せはなるとか、得るとかするものじゃないもの。
幸せは感じるだけ。感じる心があれば、例え人様が見て死にそうな苦しみの中にだって、きっと感じられる幸せはあるからね。
これ、獄中29年の俺の体験だね。

手段

2008-06-29 | Weblog
金は人間社会を潤滑に運営するのに必要な手段の一つに過ぎない。手段だから目的では無いのだが、今の社会は、まるで金が人間の生きる目的のようになっている。ここに過ちの総てがあるのではないか。
では、人生の目的は何だと言われても哲学者では無い俺には答えられないが、思うところはある。
人間は一人では生きられない。だから他人のために尽くして生きることが第一義であるべき。その中で持って産まれた能力を生かし、産まれて良かった、生きて良かったと思える月日を過ごす。人間の生きる目的は、そんなところではないかと思ってる。
でも、金が総て、金さえあれば人の心も買えるとホザクような人もいる今の時代は、そんな思いを夢想としか思わないだろう。
人の能力差はある、才能の違いは仕方がない。それが生きる差になってはならない。150キロで球を投げられる人は、更に速い球を投げられるような訓練の環境を作る。百メートルを9秒台で走れる人は、もっと速く走れるような訓練の環境を作る。勉強能力のある人には、更に能力を研ける環境を作る。どんな才能も充分に研ける環境を作るのが平等だと思う。もし、投げられない、走れない、勉強能力がない、才能の乏しい人がいたら、その人が生きて行けるに充分な環境を作る。手助けをする。
そんな社会になれば手段は手段となろう。人は一人では生きられない。隣りに一緒にいて欲しい人は、優しい人、思いやりのある人が一番じゃないか。でも、優しさや思いやりはお金にならない。本当は、そこが一番大事な人間の資質であるのに社会的に大切にされないところに問題があるのだ。
人間社会を公平で公正に運営する手段であるのが法律。なのに、その行使を歪めて真実を隠す警察や検察に困らされている俺は、手段と目的を間違えた社会の問題性を感じて仕方がない。手段と目的、間違えないで生きたいものだ。