桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

抗告書批判第三弾

2008-07-31 | Weblog
昨日の話の中で「ホントに検察は二人を犯人と思ってるのだろうか」と言う方がいた。思ってると言う人は「でなければ、こんな抗告書は書けまい」と。だよね。真剣に言ってるもの、あれこれの理屈。正気なら書けない。
俺は言ったね「検察官が一番俺たちの無実を知ってます、総ての証拠を見てる筈ですから」と。
その検察の言うことか!と思うことに、こんな主張がある。
「確定判決審における裁判所の事実認定は、原決定審(高裁のこと)で問題にされている事項について、既に十分審理を尽くした上、適法に取り調べた証拠に基づいて慎重になされていたのであり、請求人らの自白の信用性の吟味も十分になされていたのであってその事実認定の正当性は十分に認められる。確定判決後に再審請求がなされ、信用性のないわずかな証拠が提出されたからと言って、その事実認定判断を容易に覆してはならないことはむしろ当然のことである」
確かに、「信用性のない、僅かな証拠」で確定した判決が覆っては大変だよね。その限りでは正しいけど、検察が長年に亘って隠してきた証拠は、決して「信用性のない、僅かな証拠」ではない。
俺のアリバイを証明する中野区野方の「バーのママさんの証言」、死体検案書、現場から採取された毛髪、現場での目撃者、なぜ検察は隠していたの?
これらが法廷に出てしまっては俺たちを有罪に出来ないからでしょ?
これがわずかな証拠だと言うのだから言葉が無い。
素人の我々は、裁判は証拠に基づくもの、物的証拠が何よりも大事と考えている。
その物的証拠、検察の隠した毛髪について、こんなことも言う。
「請求人らものと類似していないとされた5本の毛髪についても、いわゆる形態学的検査がなされているにすぎないから、被害者のものであった可能性も無いとはいえないこと」
ほら、俺の言った通りだ!
前に書いたことだが、土浦でのとき、当時の検察官が毛髪鑑定書の「被害者との対比」が存在しない、と裁判所の問い合わせに書面で嘘を回答したことがあった。現場から発見された毛髪は、何があっても一番に被害者と対比するだろう。これは常識だ。ところが、検察官は「それが無い。警察がいい加減でね」などと、俺に言った。その後に弁護人から「領置調書に鑑定中と書いてある」と指摘されるとすぐさま「ありました」と提出したのだった。
あのとき、なぜ当たり前の「被害者と現場から採取した毛髪の鑑定書」を隠そうとしたのかと疑問だった。で、俺は「被害者との鑑定書を出さなければ、あれは全部被害者の毛髪だ、と言い逃れられるからではないか」と言った。そう書いたこともある。考えた通りだった。
今度の特別抗告書を見て、さすがに検察官は同じことを考えるものだと感心した。
大林さん、同じ穴の狢、ですかね。こんな論述、我々素人は、恥ずかしくて言えないですよ。もし、「形態学的検査だけで被害者のものの可能性がある」と言うなら、犯人とされた俺たちの物である可能性はないの?それは言えないよ。言えば、生きている俺たちに「ならDNAでも再検査しろ!」と突っ込まれるものね。死人には口なし毛髪もなし、何を言っても言い得。ああ恥ずかしい。
「採取された毛髪は、わずか8本でありー略ー本件現場を総ざらいしてすべての毛髪を採取したとはいえない状況であることは明らか」だとも言う。
また警察のせいだよ、あいつらが手抜きをしたから不正確なんだ、か。気楽だね、検察官って。
自分たちの不都合は、当時の捜査不備のせいにする。恥を知れ、大林高検!

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