26日に出雲文化伝承館で指された第46期女流名人戦五番勝負第二局。
里見香奈女流名人の先手で谷口由紀女流三段のごきげん中飛車。①から角交換の持久戦に進み,先手の穴熊,後手の木村美濃という戦型に。
先手が歩を打って後手の桂馬を捕獲したところ。ここで☖4八銀と打っていますが,局後に後手はこの手を後悔していました。
先手は☗4五桂と跳ねて☖同桂☗同歩と交換。☖5七銀成のときにさらに☗4四歩と突きました。
ここで☖5七成銀と取れずに☖4一飛と寄っていますが,これは☖4八銀と打って先手に指させたような手順なので,これでは確かに銀を打ったのはよくなかったということになるでしょう。
先手は一旦は☗4六銀と逃げ☖5六成銀に☗4九飛と回りました。後手は☖6二金左と固めたものの☗3二角と打たれ☖3一飛☗4三角成となっては大差になりました。
戻って第1図でどう指せばよかったかというとこれも難しいのですが,桂馬と角を生かす意味では☖9五歩はあったのかもしれません。ただ成算がありそうな攻めとも思えず,すでに第1図で先手がリードしていた可能性もありそうです。
里見名人が連勝。第三局は来月11日です。
第二部定理八でいわれている個物res singularisの形相的本性essentia formalisが,理性ratioによる認識cognitioの対象となるような本性であるとしたら,この解釈が第一部定理一六にも影響を及ぼすかもしれません。
第一部定理一六では,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じるといわれています。このうち,無限に多くの仕方というのを僕は無限に多くの属性attributumと解していますから,神の本性を構成する無限に多くの属性の各々のうちに,無限に多くのものが生じると解したわけです。このとき,無限に多くのものの中には,個物も含まれなければなりません。これはそれ自体で明らかでしょう。そしてすでに示したように,その個物には現実的に存在する個物も含まれると僕はいいました。これもこの定理Propositioの文言をそのまま解すれば,当然の解釈だと思います。ですが,第二部定理八と同様に,ここでは理性による認識の対象となるようなものが無限に多く生じるといわれているのだと解釈する余地があるでしょう。とすれば,ここでいわれている無限に多くのものとは,たとえばあの人間とかこの人間といわれるような人間のことを意味しているわけではなく,一般的に人間といわれるものが生じるといわれているのかもしれません。そしてこのように考えたとしても,一般的に人間といわれるようなものがあるように,一般的に馬といわれるもの,一般的に猫といわれるものというように,一般的にXといわれ得るものは無限に多くあるでしょうから,定理自体の成立を阻むわけではありません。
さらに,こういったものが永遠の相species aeternitatisの下に認識されるわけですから,それは永遠であると解することが可能です。よってこの解釈を採用すると,第一部定理二一証明の末尾でいわれている,神の絶対的本性から各々の属性の中に生じることというのを,第一部定理一六に依拠して解したとしても,成立しているということになります。つまりこの解釈は,第一部定理一六,第一部定理二一証明,第二部定理八,そして第二部定理八系を,それぞれ矛盾なく解することができるといえます。
ただし,この解釈はこの解釈で問題を残します。たとえば秋保の説を補強するとした第五部定理二二はどうでしょう。
里見香奈女流名人の先手で谷口由紀女流三段のごきげん中飛車。①から角交換の持久戦に進み,先手の穴熊,後手の木村美濃という戦型に。
先手が歩を打って後手の桂馬を捕獲したところ。ここで☖4八銀と打っていますが,局後に後手はこの手を後悔していました。
先手は☗4五桂と跳ねて☖同桂☗同歩と交換。☖5七銀成のときにさらに☗4四歩と突きました。
ここで☖5七成銀と取れずに☖4一飛と寄っていますが,これは☖4八銀と打って先手に指させたような手順なので,これでは確かに銀を打ったのはよくなかったということになるでしょう。
先手は一旦は☗4六銀と逃げ☖5六成銀に☗4九飛と回りました。後手は☖6二金左と固めたものの☗3二角と打たれ☖3一飛☗4三角成となっては大差になりました。
戻って第1図でどう指せばよかったかというとこれも難しいのですが,桂馬と角を生かす意味では☖9五歩はあったのかもしれません。ただ成算がありそうな攻めとも思えず,すでに第1図で先手がリードしていた可能性もありそうです。
里見名人が連勝。第三局は来月11日です。
第二部定理八でいわれている個物res singularisの形相的本性essentia formalisが,理性ratioによる認識cognitioの対象となるような本性であるとしたら,この解釈が第一部定理一六にも影響を及ぼすかもしれません。
第一部定理一六では,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じるといわれています。このうち,無限に多くの仕方というのを僕は無限に多くの属性attributumと解していますから,神の本性を構成する無限に多くの属性の各々のうちに,無限に多くのものが生じると解したわけです。このとき,無限に多くのものの中には,個物も含まれなければなりません。これはそれ自体で明らかでしょう。そしてすでに示したように,その個物には現実的に存在する個物も含まれると僕はいいました。これもこの定理Propositioの文言をそのまま解すれば,当然の解釈だと思います。ですが,第二部定理八と同様に,ここでは理性による認識の対象となるようなものが無限に多く生じるといわれているのだと解釈する余地があるでしょう。とすれば,ここでいわれている無限に多くのものとは,たとえばあの人間とかこの人間といわれるような人間のことを意味しているわけではなく,一般的に人間といわれるものが生じるといわれているのかもしれません。そしてこのように考えたとしても,一般的に人間といわれるようなものがあるように,一般的に馬といわれるもの,一般的に猫といわれるものというように,一般的にXといわれ得るものは無限に多くあるでしょうから,定理自体の成立を阻むわけではありません。
さらに,こういったものが永遠の相species aeternitatisの下に認識されるわけですから,それは永遠であると解することが可能です。よってこの解釈を採用すると,第一部定理二一証明の末尾でいわれている,神の絶対的本性から各々の属性の中に生じることというのを,第一部定理一六に依拠して解したとしても,成立しているということになります。つまりこの解釈は,第一部定理一六,第一部定理二一証明,第二部定理八,そして第二部定理八系を,それぞれ矛盾なく解することができるといえます。
ただし,この解釈はこの解釈で問題を残します。たとえば秋保の説を補強するとした第五部定理二二はどうでしょう。
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