スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

震災復興支援競走農林水産大臣賞典ダイオライト記念&第二部定理七備考の前提

2011-05-02 18:41:50 | 地方競馬
 開催日程の関係から船橋競馬は2開催が中止となってしまいました。このうち,3月16日に予定されていた第56回ダイオライト記念は今日に順延して実施されることになりました。
 ブラボーデイジーの逃げもあるかと考えていましたが,スマートファルコンが先手を奪いました。おそらく逃げも想定していたと思われるブラボーデイジーが2番手。3番手にはフリートアドミラルがつけましたが,ここらあたりは集団での追走。最初の1000mは62秒5。これはハイペースです。
 向正面で動いたのがキングスエンブレム。これが2番手まで上がったのですが,そこでスマートファルコンがペースアップするとついていけなくなりました。スマートファルコンはそのまま快調に後ろを離していき,直線の入口ではほぼ独走状態。ラップをみるとだいぶ失速しましたが,これに乗じて追い上げるだけの余力を残した馬もなく,8馬身差の快勝。3番手集団のインから4コーナーで2番手に上がったカキツバタロイヤルが流れ込んで2着。外を追い上げたインバルコが3着。
 優勝したスマートファルコンは昨秋のJBCクラシック,浦和記念,東京大賞典と3連勝した後,休養に入ってここが今年の初戦。4連勝で重賞14勝目。相手関係から負けることは考えにくく,問題は距離でしたが,とくに適性が高かった馬もいなかったようで,能力の差をみせつける圧勝となりました。父はゴールドアリュール,兄に1999年の東京大賞典を勝ったワールドクリーク,曾祖母がアリアーン
 武豊騎手,小崎憲調教師はダイオライト記念初勝利となります。
                         

 僕が考えるドゥルーズの論証のような方法で第一部定義四の認識論と実在論の問題を片付けるのは,別にドゥルーズだけに特有のやり方であるとは僕は考えていません。たとえば岩波文庫版の『エチカ』の訳者である畠中尚志は,当該部分の訳注において,この知性は無限の知性を含めているという見解を示しています。そしてこのゆえにこの定理は実在論的に解釈するべきであると主張するなら,その論証過程はおそらく同一のものになるのではないかと思います。
 こうした考え方を補強する部分がさらに『エチカ』にはあります。それが第二部定理七備考の冒頭です。そこでスピノザは「無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは…」といっています。この,実体の本質を構成すると知覚するという表現が,第一部定義四を念頭においていることは確かだと思えます。したがってこの文章は要するにすべての属性は…という意味になるかと思いますが,このとき,明らかに実体の本性を認識する知性として,スピノザは無限知性を前提としているといえます。そしてこの知性が無限知性であるならば,確かに認識論と実在論は,同じ秩序,いい換えれば単に観点が異なるだけで同様の意味を有しているということになるでしょう。すなわち第一部定義四は,少なくとも実在論的に理解することが可能であるということになります。
 ただし,このことは別の観点から考えた場合,ある種の問題を孕んでいるとはいえます。というのは,この文章の全体の構成から考えると,もしも第一部定義六が実在的ではなく名目的であると仮定した場合にも,上述したような論証が可能であるのかといえば,そこにはいささか疑問の余地も残るのではないかというように思われるからです。とくにドゥルーズにはこの問題は大きく関係するように思いますが,僕自身は第一部定義六というのをそれ自体で実在的意味を含有していると考えていますので,このことに関してはそれ以上は深入りしません。
 ただ,いかにこの部分でスピノザが無限知性を前提しているからといって,第一部定義四自体のうちに,そこでいわれている知性を神の無限知性と理解しなければならない理由が含まれているとは僕には思えません。だから,有限な知性,たとえば人間の知性である場合にどうなのかということは,やはり考えておかなければならないだろうと思います。

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