スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

愛する主体&ライプニッツへの批判

2015-09-04 19:17:41 | 哲学
 第五部定理三六でスピノザが述べているのは,ある人間が神を愛する場合のその愛と,神が自分自身を愛するその愛とは,このような仕方で名目的には区分し得るとしても,その愛が現実的に存在する感情として把握される場合には,区分することが不可能なものであるということです。要するに,ある人間が神を愛することと,神が自分を愛することは同じことだとスピノザは主張していることになります。
                         
 このことの根拠になるのは第二部定理一一系です。ある人間の精神とは,その人間の精神という様態的変状様態化した神の思惟の属性です。つまりAという人間が神を愛するという思惟作用は,Aという人間の精神という様態的変状に様態化した神の思惟の属性が,神を愛すろという思惟作用,いわば神自身の思惟作用に同じです。だから一般に人が神を愛することと,神が自身を愛することが同一視できるのです。
 普通は僕たちは,何かの対象を愛するというとき,自分が主体となってその対象を愛しているというように表象するものだと思います。でもスピノザはそれを認めていないことになります。というのも,人間の精神が神の無限知性の一部であるということは一般的な真理ですから,対象がどんなものであろうと,人間の精神が何かを愛するときは,無限知性の一部がそれを愛しているのと同じことになるからです。したがって,少なくとも僕たちが能動的に何かを愛するというとき,愛しているのは実は僕たちではなく,神であるということになるのです。
 スピノザの認識論のうちには,主体の排除ということが含まれているということはすでに指摘した通りです。そしてこの主体の排除というのは,少なくとも人間の精神が十全な原因となる場合には,単に認識するいい換えれば事物を概念するという場合にだけ当て嵌まるのではありません。あらゆる思惟作用に該当するのです。ですから愛するという場合ですら,そこには主体の排除が徹底されていると理解するべきであると考えます。

 フェルトホイゼンが『神学・政治論』を批判したのも,これを少しでも評価すれば,デカルト主義と理神論すなわちフェルトホイゼンにとっての無神論が結び付けられてしまうという危険性に気付いたからなのかもしれません。この時代のデカルト主義者は,一般的にスピノザとデカルトが結び付けられることに過敏に反応したようです。
 ライプニッツは宮廷人という立場に見合う哲学を構築したので,スピノザはもとより,デカルトと比べた場合にも反動的な一面を有しています。いい換えれば,カルヴィニストにとって思想の面ではスピノザもデカルトも同じようなものであったというのと類比的な意味で,ライプニッツにとってはスピノザもデカルトも自身の哲学の敵対者でした。『宮廷人と異端者』では,ライプニッツにとってデカルトとは,ひ弱なスピノザにすぎなかったという主旨の記述があります。全面的な意味でデカルトがひ弱なスピノザであろう筈がありません。そもそも時代的にデカルトがスピノザに先行しているのです。ただ,ライプニッツがスピノザやデカルトの哲学と対立的であるとき,ライプニッツにデカルトがそのように感じられたとしても,不自然ではないように思います。
 こうした事情から,ライプニッツはデカルトの教説とスピノザの教説を混同したような批判を公にする場合がありました。僕はこれは意図的にそのようにしたのであって,実際にライプニッツが両者の思想を混同していたというようには考えません。ライプニッツによるスピノザ批判は,その内容からデカルト批判を含まざるを得ないようなものであったがゆえに,ライプニッツは両者を一斉に批判したのだろうと推測します。
 しかしデカルト主義者にとってこのような批判は甘受できるものではありませんでした。なのでライプニッツも,そのことに関する批判を,デカルト主義者の側から受けています。つまりデカルト主義者の側からは,デカルトとスピノザを並べて批判されることは,看過できないことであったことが分かります。
 しかし,僕はある部分では,ライプニッツの見解は,デカルト主義者よりもスピノザに近かったと思うのです。

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