僕のプロレスキャリアにおいて,NWA王者といえるのがネイチャーボーイ。そしてその一時代前が美獣。両者について,タイガー・戸口の興味深い分析があります。
レイスの特徴は,攻めも受けも大きく見せること。とくにレイスのような受け身を取る選手は,レイス以前に存在していなかったそうです。レイスより前,ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコが王者であった時代,かれらはブリッジをする投げ技をレパートリーのひとつに備えていました。これはアマレスがベースになっているためで,レイスにそうした技がなかったのは,それがベースではなかったためというのが戸口の分析。戸口はそれには言及していませんが,ドリーやブリスコの技は,レイスを相手にしたときにはより映えたと推測できます。これがレイスがトップに上がっていくときの,大きな要因になったことは,十分に考えられるのではないでしょうか。
戸口によればそれでもレイスは田舎じみたところがあり,フレアーはレイスの一枚も二枚も上をいっているという見立てです。育った環境が常に表舞台で,スポットライトを浴びることに若いうちから慣れていたので,自分を光らせるのが巧みでした。つまりレイスには叩き上げの要素があるのに対し,フレアーはエリート。馬場は若かりし頃のフレアーを見たときに,将来はトップに立つ選手だと評価したようですが,戸口も,フレアーにはベルトを獲る前から王者の雰囲気があったと語っています。
レイスは悠然と間をとって試合をするので,馬場にはやりやすかったのではないかというのが戸口の推測。一方,フレアーに挑戦したのはジャンボ・鶴田で,馬場が挑むことはありませんでした。フレアーはバディ・ロジャースのコピーだといわれていて,馬場はロジャースを絶賛していたので,表立って闘いたくなかったのだろうというのが戸口の推測。ただ,フレアーはレイスと比べると,体格的には劣りましたので,そういう相手を王者として闘いたいとは思わなかったという側面もあったのではないかと僕は考えています。
僕はここでも,単に有限であるものは無限であるというテーゼを真なるものとして成立させたいという理由だけで,与えられた同等の権利のうちの一方を行使するというわけではありません。こちらの権利を行使することによって,『エチカ』の他の部分にある不分明さが,いくらかなりとも解消されるのではないかと思うのです。それがこの権利を行使する最大の理由であると理解してください。冒頭にいったように,僕はこの別の論証は,それまでの論証と齟齬を来すけれども,有力ではあると思っています。そしてそれが有力であると思う理由というのが,この権利を行使した結果として得ることができる,『エチカ』の全体との整合性なのです。
第一部定理二三には,少しだけ不思議なところがあります。それは直接無限様態の位置付けとでもいうべきことに関連します。ここでは直接無限様態は,属性の絶対的本性から生起する結果であると示されていると同時に,無限な様態的変状に様態化した属性として,間接無限様態を生起させる原因であるとも示されています。
これでみれば,第一部定理二三の目的は,いかにして間接無限様態が生起するのかを示すことなのであって,直接無限様態というのはただその目的を達成するための手段でしかないように感じられます。確かにこの定理の文脈だけをみれば,そうであるとしか考えられないのです。しかしそうであるなら,直接無限様態というものの地位が,間接無限様態のそれと比較した場合に,著しく貶められているように感じられてならないのです。これがこの定理に秘められた不思議さの正体であるといえます。
スピノザは,思考の方法論としては因果論を選択し,目的論は排除します。ですから,このような目的論的疑問を呈すること自体が,不毛なことであるという一面があるということは否めません。属性と直接無限様態と間接無限様態の三者の間にある因果論的関係は,この定理に示されている通りの真理なのであって,そこには目的は存在しないし,それが入り込んでくるような余地もないと答えられれば,ただそれまでであるといわなければならないからです。
レイスの特徴は,攻めも受けも大きく見せること。とくにレイスのような受け身を取る選手は,レイス以前に存在していなかったそうです。レイスより前,ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコが王者であった時代,かれらはブリッジをする投げ技をレパートリーのひとつに備えていました。これはアマレスがベースになっているためで,レイスにそうした技がなかったのは,それがベースではなかったためというのが戸口の分析。戸口はそれには言及していませんが,ドリーやブリスコの技は,レイスを相手にしたときにはより映えたと推測できます。これがレイスがトップに上がっていくときの,大きな要因になったことは,十分に考えられるのではないでしょうか。
戸口によればそれでもレイスは田舎じみたところがあり,フレアーはレイスの一枚も二枚も上をいっているという見立てです。育った環境が常に表舞台で,スポットライトを浴びることに若いうちから慣れていたので,自分を光らせるのが巧みでした。つまりレイスには叩き上げの要素があるのに対し,フレアーはエリート。馬場は若かりし頃のフレアーを見たときに,将来はトップに立つ選手だと評価したようですが,戸口も,フレアーにはベルトを獲る前から王者の雰囲気があったと語っています。
レイスは悠然と間をとって試合をするので,馬場にはやりやすかったのではないかというのが戸口の推測。一方,フレアーに挑戦したのはジャンボ・鶴田で,馬場が挑むことはありませんでした。フレアーはバディ・ロジャースのコピーだといわれていて,馬場はロジャースを絶賛していたので,表立って闘いたくなかったのだろうというのが戸口の推測。ただ,フレアーはレイスと比べると,体格的には劣りましたので,そういう相手を王者として闘いたいとは思わなかったという側面もあったのではないかと僕は考えています。
僕はここでも,単に有限であるものは無限であるというテーゼを真なるものとして成立させたいという理由だけで,与えられた同等の権利のうちの一方を行使するというわけではありません。こちらの権利を行使することによって,『エチカ』の他の部分にある不分明さが,いくらかなりとも解消されるのではないかと思うのです。それがこの権利を行使する最大の理由であると理解してください。冒頭にいったように,僕はこの別の論証は,それまでの論証と齟齬を来すけれども,有力ではあると思っています。そしてそれが有力であると思う理由というのが,この権利を行使した結果として得ることができる,『エチカ』の全体との整合性なのです。
第一部定理二三には,少しだけ不思議なところがあります。それは直接無限様態の位置付けとでもいうべきことに関連します。ここでは直接無限様態は,属性の絶対的本性から生起する結果であると示されていると同時に,無限な様態的変状に様態化した属性として,間接無限様態を生起させる原因であるとも示されています。
これでみれば,第一部定理二三の目的は,いかにして間接無限様態が生起するのかを示すことなのであって,直接無限様態というのはただその目的を達成するための手段でしかないように感じられます。確かにこの定理の文脈だけをみれば,そうであるとしか考えられないのです。しかしそうであるなら,直接無限様態というものの地位が,間接無限様態のそれと比較した場合に,著しく貶められているように感じられてならないのです。これがこの定理に秘められた不思議さの正体であるといえます。
スピノザは,思考の方法論としては因果論を選択し,目的論は排除します。ですから,このような目的論的疑問を呈すること自体が,不毛なことであるという一面があるということは否めません。属性と直接無限様態と間接無限様態の三者の間にある因果論的関係は,この定理に示されている通りの真理なのであって,そこには目的は存在しないし,それが入り込んでくるような余地もないと答えられれば,ただそれまでであるといわなければならないからです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます