馬場とハンセンの初対決では,ハンセンが馬場にショルダースルーを仕掛け,馬場がそれを受けるというシーンがありました。とりたてて特別な攻防ではありませんが,これについてはちょっと思うところがあります。
プロレスファンなら承知しているでしょうが,ショルダースルーを巡る攻防には大きく分けてみっつのパターンがあります。ひとつは相手が仕掛けてきたときに素直に受けるというもの。もうひとつは逆に受けることを拒否するというもの。たとえばショルダースルーを仕掛ける選手は前かがみになりますので,胸板の辺りを蹴り飛ばすというのがこのパターンの代表例です。もうひとつが受けると受けないの中間で,切り返すというもの。この代表的なのはショルダースルーを仕掛けた相手に回転エビ固めを仕掛け返すというもの。このときは回転エビ固めを巡る攻防というのもあって,ショルダーするを仕掛けた選手が回転エビ固めをさらにヒップドロップで切り返すというようなパターンも見られます。また,相手の仕掛けたショルダースルーの勢いをもらって,前方宙返りのように一回転して立ち,振り向いてきた相手に対して別の攻撃を繰り出すというようなものも僕はこのパターンに含めます。
馬場は大型でしたが,運動神経は悪くなく,意外なほど器用なところもあったようなので,もしかしたら前方宙返りは無理にしても回転エビ固めくらいはやろうと思えばできたかもしれません。ただ,馬場のような大型選手がそのような切り返しをすることは相応しくありませんし,ファンに対して説得力を欠くような面があるということは馬場自身がよく心得ていたと思います。なのでハンセンがショルダースルーを仕掛けてきたならば,馬場には受けるか受けないかのふたつの選択肢しかなかったと僕は判断します。
馬場はその選択肢の中から,このときは受ける方を選んだのだと僕は思っています。ことによるとその選択には理由があったかもしれません。
第四部定義一はその文言を読めば明白なように被造物の定義です。この定義でいわれている我々というのが人間ないしは人間の精神を意味するのは疑い得ません。第二部定理一〇系から明らかにように人間の精神は被造物です。被造物である人間の精神が確知する何らかの事柄が定義されているのですから,それは被造物の定義といわざるを得ません。もちろん,確知されるものに注目すれば,それは被造物である場合もあれば被造物でない場合もあるでしょう。ですがそのように確知されるものの本性について定義されているのではないということは明らかなので,これは被造物の定義なのです。つまり善は被造物なのです。僕たちはあまり善を被造物とはみなさないでしょうから,この点については注意しておく必要があります。
スピノザは神は神自身の本性の必然性によって働くと考えています。ですがスピノザは第一部定理三三備考二の中で意志と善意を比較し,神が意志の自由によって働くとする意見は,神が善意によって働くという意見ほどには真理から乖離していないと主張していました。つまり善が神の本性に属するという意見は,自由意志が神の本性に属するという意見よりずっと混乱して神を認識しているといっているのです。このことからも善が神の本性には属さないということ,すなわち被造物でないものには属さないということは理解できるでしょう。
さらにいうと,神が何事かを認識すると仮定しても,神が善を認識するということはないのです。詳細は省きますがこのことは第四部定理六八と第二部定理七系の意味から帰結しなければなりません。また同じことは,第四部定理八に注意するなら,第五部定理一七からも帰結するでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/c2/99160afc2657272eb29fede41c2ac165.jpg)
「神はいかなる受動にもあずからず,またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない」。
『エチカ』内部での意味合いは,この定理は神が人を愛することもないし憎むこともないということを帰結させるために配置されているといえるかもしれません。ですがこの定理から神が善も悪も認識しないということは明白でしょう。つまり善も悪も被造物であると考えなければならないのです。
プロレスファンなら承知しているでしょうが,ショルダースルーを巡る攻防には大きく分けてみっつのパターンがあります。ひとつは相手が仕掛けてきたときに素直に受けるというもの。もうひとつは逆に受けることを拒否するというもの。たとえばショルダースルーを仕掛ける選手は前かがみになりますので,胸板の辺りを蹴り飛ばすというのがこのパターンの代表例です。もうひとつが受けると受けないの中間で,切り返すというもの。この代表的なのはショルダースルーを仕掛けた相手に回転エビ固めを仕掛け返すというもの。このときは回転エビ固めを巡る攻防というのもあって,ショルダーするを仕掛けた選手が回転エビ固めをさらにヒップドロップで切り返すというようなパターンも見られます。また,相手の仕掛けたショルダースルーの勢いをもらって,前方宙返りのように一回転して立ち,振り向いてきた相手に対して別の攻撃を繰り出すというようなものも僕はこのパターンに含めます。
馬場は大型でしたが,運動神経は悪くなく,意外なほど器用なところもあったようなので,もしかしたら前方宙返りは無理にしても回転エビ固めくらいはやろうと思えばできたかもしれません。ただ,馬場のような大型選手がそのような切り返しをすることは相応しくありませんし,ファンに対して説得力を欠くような面があるということは馬場自身がよく心得ていたと思います。なのでハンセンがショルダースルーを仕掛けてきたならば,馬場には受けるか受けないかのふたつの選択肢しかなかったと僕は判断します。
馬場はその選択肢の中から,このときは受ける方を選んだのだと僕は思っています。ことによるとその選択には理由があったかもしれません。
第四部定義一はその文言を読めば明白なように被造物の定義です。この定義でいわれている我々というのが人間ないしは人間の精神を意味するのは疑い得ません。第二部定理一〇系から明らかにように人間の精神は被造物です。被造物である人間の精神が確知する何らかの事柄が定義されているのですから,それは被造物の定義といわざるを得ません。もちろん,確知されるものに注目すれば,それは被造物である場合もあれば被造物でない場合もあるでしょう。ですがそのように確知されるものの本性について定義されているのではないということは明らかなので,これは被造物の定義なのです。つまり善は被造物なのです。僕たちはあまり善を被造物とはみなさないでしょうから,この点については注意しておく必要があります。
スピノザは神は神自身の本性の必然性によって働くと考えています。ですがスピノザは第一部定理三三備考二の中で意志と善意を比較し,神が意志の自由によって働くとする意見は,神が善意によって働くという意見ほどには真理から乖離していないと主張していました。つまり善が神の本性に属するという意見は,自由意志が神の本性に属するという意見よりずっと混乱して神を認識しているといっているのです。このことからも善が神の本性には属さないということ,すなわち被造物でないものには属さないということは理解できるでしょう。
さらにいうと,神が何事かを認識すると仮定しても,神が善を認識するということはないのです。詳細は省きますがこのことは第四部定理六八と第二部定理七系の意味から帰結しなければなりません。また同じことは,第四部定理八に注意するなら,第五部定理一七からも帰結するでしょう。
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「神はいかなる受動にもあずからず,またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない」。
『エチカ』内部での意味合いは,この定理は神が人を愛することもないし憎むこともないということを帰結させるために配置されているといえるかもしれません。ですがこの定理から神が善も悪も認識しないということは明白でしょう。つまり善も悪も被造物であると考えなければならないのです。
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