スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

霧島酒造杯女流王将戦&第四部定理五八証明

2017-09-12 19:02:03 | 将棋
 9日に放映された第39期女流王将戦挑戦者決定戦。収録は8月8日。対戦成績は加藤桃子女王が5勝,伊藤沙恵女流二段が2勝。持将棋が一局。プロの将棋では千日手は一局とはカウントされませんが,持将棋はカウントされるので,これが9局目ということになります。また,これは女流公式戦での結果です。両者は奨励会でも対戦経験があった筈です。
 振駒で伊藤二段の先手。序盤で工夫を凝らした上での矢倉。後手の加藤女王は右玉に組みました。先手に落手があり,そこでうまく戦機を掴んだ後手が,飛車金交換の駒得で龍と馬を作りましたから,一時的には大きくリードをしていたものと思います。先手が玉頭から反撃したのに対して後手が強気に応じて攻め合ったので,終盤は一手違いに。
                                     
 自玉に詰めろが掛かっていたため王手ラッシュを続けていた先手に手がなくなり,8七の歩を7八の金で取った局面。これは必ず銀を入手できますので,それでもうひと頑張りしようという意図だったと思います。
 この局面は三択だったと思います。ひとつは☖同銀成と取ってしまい☗同玉☖8六歩☗同玉☖8五金と上から押さえていく順。ふたつめは☖8九銀不成☗同玉☖8七銀成と攻める順。この後の展開と同じになるならどちらも後手が勝てていたように思います。実戦は☖9九銀成と香車の方を取って☗同玉☖8七銀成と進めました。
                                     
 僕は見逃し放映で視たのですが,第2図は後手の勝ちだと思い込んでいました。ですがこの局面は難しく,もしかしたらすでに先手が勝ちになっていたのかもしれません。
 ☗6一金☖4二王☗4三銀☖同龍☗同角成☖同王☗4五歩で詰むなら先手の勝ちですが,これは上に追っていく順で逃げられると負けです。なので☗5二銀と打って☖同金☗同角成☖同王☗3二飛成と進めました。
                                     
 ここで☖4二銀と打ちましたが,☖4二歩と突いた方がよかったかもしれません。ただしそれでも後手は勝てない可能性が高いです。
 ここからの先手の手順が素晴らしかったです。☗6一銀☖6三王☗7二銀不成☖7四王☗7五歩☖同王と上に追います。これは後手もこう応じるほかありません。そこで☗7六金☖同王と捨てて☗7七金打☖同成銀☗同金で王手を続けながら自玉の詰めろを解消しました。
                                     
 これは8九に桂馬がいたから生じました。なので同じように進むという前提で,第1図では後手は香車を取るよりは桂馬を取った方がよかったのです。
 ☖8五王と逃げたのに対して☗8六銀☖7四王と追いました。☗7五歩は打ち歩詰めの反則で打てませんが,第3図の直後に後手が打った銀を☗4二龍と取って後手玉は受けがありません。
                                     
 この手はこの後の後手の王手ラッシュで先手玉が6八に追われたときに☖4八龍と入って王手するのを防いだ受けの手になっています。第3図の後で☖4二歩の場合はこの手はありませんでした。ただ,第4図の後で☖8五王のとき,☗8六金と打たずに☗3八龍と引いて受けに利かせつつ詰めろを掛ける手があります。☖4八歩が二歩で打てないので,これも先手の勝ちだったと思われます。
 伊藤二段が挑戦者に女流王将戦三番勝負は初出場。今月中は再放送が続くようで,まだ第一局がいつ放映されるのか分かりません。

 理性ratioは精神の能動actio Mentisです。第三部定理三から分かるように精神の能動は十全な観念idea adaequataからのみ生じます。したがって第四部定理五八でいわれていることのうち,名誉gloriaという感情affectusが理性から生じることができるということを証明するために必要なことは,第三部諸感情の定義三〇でいわれている,他人から賞賛される自分の行為の観念が,十全な観念であり得るということを示すことだと僕は考えます。しかしスピノザによる証明Demonstratioにそのことが含まれているとは僕には思えません。なので僕はこの証明に不満を感じているのです。
 それが十全な観念であり得るということは,確かに端正の定義Definitioによって明らかだといえるでしょう。この定義は,理性に従って生活する人びとが賞賛する何らかの行為があるということを前提としているからです。したがってある人間が,自分のある行為がそうした人びとによって賞賛されるということを,十全に認識し得るといえるからです。なお,ここで重要なのは,それが理性に従って生活する人が賞賛する行為であるという点です。人間は理性に従っていようと従っていまいと,他人を賞賛するということはあり得ます。単純にいえば第四部定理五七は,阿諛追従の徒は高慢な人間を賞賛し,寛仁generositasの人は高慢な人間を賞賛しないということから証明できるともいえるからです。しかし,ある人間が,理性に従っていない人が,ある行為についてそれを確実に賞賛するということを知っていたからといって,その行為の観念を原因として伴った名誉という喜びを感じたとしても,それはその人間の名誉という感情が理性から生じているということにはなりません。というか,定理Propositioの文言でいうなら,この種の名誉は理性と矛盾していないということができません。いい換えればたとえそれが確実に認識できている事柄であったとしても,これは第四部定理五八備考にいわれる虚名vana gloriaです。
 つまり,現実的に賞賛されるか否かは第四部定理五八にとっては重要ではありません。ある人間が理性に従う人が賞賛する自身の行為の観念を原因として喜びlaetitiaを感じるということがすべてです。そしてそのことは,理性によってのみ確実に認識することができるのです。

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