2日の第26期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
先手は森内俊之名人。郷田真隆九段の誘いで横歩取りに。後手の早めの△7ニ銀を見て,先手は中住いに構えました。
ここで△2四飛。▲同飛△同銀にさほど時間を使わずに▲8四飛。後手は大長考の末に△8三歩と飛車成りを受けました。となれば▲2四飛△同角▲1一角成までは一直線。後手はそこで△3三角と引いたので▲2一馬。
瞬間的にですが三枚換えで手番を握っていますから,これはさすがに先手が優勢なのでしょう。第1図で飛車をぶつける手が無理だったという結論になりそうですが,最も直線的に進んだ変化しにくいと思われる手順で悪くなるのに,その手を選択したのは不可解な気がします。
森内名人が勝って1勝1敗。第三局は来週の月曜日。
内的特徴からみられた観念が混乱した観念でないならば十全な観念であるという命題を,真の命題として構成する別の命題というのは,観念はその内的特徴からみられるなら,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるというものです。なお,ひとつ注意しておけば,この命題が含意していることは,Xという観念を内的特徴から把握するなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかの必ずどちらかなのであって,どちらでもないということはあり得ないし,かといってどちらでもあるということもあり得ないということです。そしてこの命題が,変種の命題として,ここで考察の対象に据えている命題を導出し得るということは,あまり説明する必要がないことだといえるでしょう。
次に,僕がここで考察対象としている命題が変種であるというときには,単に同一の命題を別のパターンで記述したというのとは異なった意味がありますので,それも説明しておきます。僕は一般にAはBの変種であるという場合には,まずBがあって,そこからAが出てくるというように解しています。つまり僕がいっているのは,まず先に内的特徴からみられた観念は十全であるか混乱しているかのどちらかであるということがあって,そこから,混乱していないならば十全であるということが帰結するのだということです。逆に後者があって,そこから前者が帰結するということはありません。ここで扱っているふたつの命題だけに限っていうならば,後者の命題が前者の命題から帰結しなければならず,前者の命題というのは別に後者の命題とは関係なしに真の命題として定立するということは明らかだと思います。ここでは一般的に論じる必要性を感じませんので,このことだけを主張しておきます。
このことから,仮に前者の命題が積極的な命題とみなせないのであるとしたら,後者の命題の場合にも積極的であるとはみなせないであろうということが分かります。積極的であるとはみなせないような事柄から,積極的であるとみなせる事柄が帰結するというのは,どう考えても不条理だからです。このふたつの命題は,単に論理的に別のパターンの命題というのとは違うのです。
先手は森内俊之名人。郷田真隆九段の誘いで横歩取りに。後手の早めの△7ニ銀を見て,先手は中住いに構えました。
ここで△2四飛。▲同飛△同銀にさほど時間を使わずに▲8四飛。後手は大長考の末に△8三歩と飛車成りを受けました。となれば▲2四飛△同角▲1一角成までは一直線。後手はそこで△3三角と引いたので▲2一馬。
瞬間的にですが三枚換えで手番を握っていますから,これはさすがに先手が優勢なのでしょう。第1図で飛車をぶつける手が無理だったという結論になりそうですが,最も直線的に進んだ変化しにくいと思われる手順で悪くなるのに,その手を選択したのは不可解な気がします。
森内名人が勝って1勝1敗。第三局は来週の月曜日。
内的特徴からみられた観念が混乱した観念でないならば十全な観念であるという命題を,真の命題として構成する別の命題というのは,観念はその内的特徴からみられるなら,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるというものです。なお,ひとつ注意しておけば,この命題が含意していることは,Xという観念を内的特徴から把握するなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかの必ずどちらかなのであって,どちらでもないということはあり得ないし,かといってどちらでもあるということもあり得ないということです。そしてこの命題が,変種の命題として,ここで考察の対象に据えている命題を導出し得るということは,あまり説明する必要がないことだといえるでしょう。
次に,僕がここで考察対象としている命題が変種であるというときには,単に同一の命題を別のパターンで記述したというのとは異なった意味がありますので,それも説明しておきます。僕は一般にAはBの変種であるという場合には,まずBがあって,そこからAが出てくるというように解しています。つまり僕がいっているのは,まず先に内的特徴からみられた観念は十全であるか混乱しているかのどちらかであるということがあって,そこから,混乱していないならば十全であるということが帰結するのだということです。逆に後者があって,そこから前者が帰結するということはありません。ここで扱っているふたつの命題だけに限っていうならば,後者の命題が前者の命題から帰結しなければならず,前者の命題というのは別に後者の命題とは関係なしに真の命題として定立するということは明らかだと思います。ここでは一般的に論じる必要性を感じませんので,このことだけを主張しておきます。
このことから,仮に前者の命題が積極的な命題とみなせないのであるとしたら,後者の命題の場合にも積極的であるとはみなせないであろうということが分かります。積極的であるとはみなせないような事柄から,積極的であるとみなせる事柄が帰結するというのは,どう考えても不条理だからです。このふたつの命題は,単に論理的に別のパターンの命題というのとは違うのです。
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