スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

春日賞争覇戦&第五部定理二二証明

2016-02-23 19:04:55 | 競輪
 奈良記念の決勝。並びは新田‐和田の北日本,浅井‐山内の中部,古性‐三谷の近畿で芦沢と石井と吉本は単騎。
 浅井がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に芦沢,4番手に新田,6番手に石井,7番手に吉本,8番手に古性と,すんなりと隊列が決まっての周回になりました。残り3周のホームでまず吉本が動き,古性が続きました。バックで吉本が浅井の前に出ると今度は芦沢が上昇し,これに乗ったのが石井。コーナーでは芦沢,石井,吉本と単騎の3人が前になり,浅井がその後ろ。これを外から古性が叩きにいき,新田が続こうとしましたが芦沢と石井は阻止。前から古性,芦沢,石井,新田,吉本,浅井の隊列の一列棒状となり,バックから打鐘を通過。残り1周のホームの前から後方になった浅井の巻き返し。前で対応したのは石井でしたが,浅井はその外を乗り越え,バックでは古性も捲り切ってそのまま優勝。マークの山内が4分の3車身差の2着に続いて中部のワンツー。位置は悪くなかったものの浅井に被せられ後手を踏んでしまった新田が捲り追い込んで4分の1車輪差の3着。
 優勝した三重の浅井康太選手競輪グランプリ以来の優勝。記念競輪は昨年8月の四日市記念以来の通算16勝目。奈良記念は初優勝。前受けした時点で,8番手になる可能性も予期していたものと思います。腹を括って引き,残り1周半くらいから踏んでいった思いきりのよさが優勝に結実したというようなレース。脚力の確かさも見せつけるようなレースでしたから,次の日本選手権も楽しみなったと思います。

 スピノザは第一部定理二五第五部定理二二の論証の主軸に据えます。
                                     
 僕が使っている岩波文庫版の『エチカ』の下巻は1990年の第30刷です。これは1975年に改版された第18刷の増刷です。この版の第五部定理二二の証明の最初の文章は,神が人間の身体の本性であると読解できるようになっています。しかしこれは誤りで,人間の身体の本性の原因であるとなっていなければなりません。これはスピノザが第一部定理二五に訴求していることからも,またこの文章の中で,神が人間の身体の存在の原因であるばかりではないという主旨のことがいわれていることからも明白です。つまりここには誤訳か脱字のどちらかがあることになります。
 神が人間の身体の本性の原因であるとしたなら,人間の身体の本性は,第一部公理四によって,神の本性を通して概念されなければなりません。いい換えれば,神の本性が概念されれば人間の身体の本性も必然的に概念されるという様式で概念されなければなりません。したがって,人間の身体の本性の十全な認識というのは,たとえ人間の身体が個物であるとしても,第一部定理二八第二部定理九で示されているような様式で知性に概念されるのではありません。第一部定理一六で示されている様式で概念されることになるのです。要するに神の本性というのは人間の身体の本性に対して,原因という意味において「先立つ」ものではありますが,その神の本性から無限に多くのものが生じるという意味において,神の本性が存在するならば,必然的に存在するものとして,人間の身体の本性というものはあるということになります。
 第二部定理三は,第一部定理一六の様式で神の本性を原因として生じる無限に多くのものの十全な観念が神のうちにあるということを示しています。したがって,神の中には,人間の身体の本性を永遠の相の下に表現する観念が必然的に存在することになり,第五部定理二二の証明は完了します。無限様態が本性によってでなく原因によって無限であるといわれるように,人間の身体の本性の観念は神の本性という原因によって,永遠の相の下に表現されるということになるのです。

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