今回からは第92期棋聖戦五番勝負第三局です。最初に,この将棋を取り上げる理由を説明しておきます。
僕は自身の棋力は大したことがありませんから,記事を書くにあたっては棋譜コメントや,現在であればAIの評価値や推奨手などを参考にします。その上で並べて検討します。それでも変化が大きい中盤は,僕の力では解明することが難しいということが僕自身がよく分かっていますので,それほど時間を掛けて考えることはしません。膨大な変化のすべてを並べることは物理的に不可能ですし,そもそもこのような局面は有利と不利という結論を出すことができるだけであって,一方の勝ちという結論を出せるわけではありません。
しかし終盤,とくに最終盤になるとこれとは違います。終盤は将棋というゲームの論理的に指すことができる手というのが限られていますから,中盤ほど膨大な変化は生じません。さらにひとつの変化を進めていけばどちらの勝ちかを結論付けることができます。ですから僕程度の棋力しかないとしても,時間を掛けて並べて考えることを,各々の変化について繰り返していけば,その変化のすべてについてどちらの勝ちであるのかということの結論を出すことができますので,そこからある局面まで遡って,たとえばこの特定の局面である特定の手を先手が指せば,先手の勝ちであったというように断定することができます。つまりこうした局面は時間を掛けて考える価値がありますから,その場合は僕も時間を掛けます。第42期棋王戦五番勝負第一局とか第33期竜王戦七番勝負第三局などは,明確な結論を出すところまではいっていませんが,かなり時間を使った結果として,一定の結論を出せたという記憶があります。
ところがどんなに時間を使って出した結論でも,間違えているということが稀に発生するのです。これから取り上げようとする将棋はまさにそれです。そうした個人的な事情でこの一局は僕の印象に残るところとなったのですが,それと同時に,正確な結論を示しておきたいという思いもあるのです。
確かに個別の憎しみodiumがそれと別の憎しみを,たとえばXのうちにあるAに対する憎しみがBに対する憎しみを抑制したり除去したりするということはあるのです。しかしだからといって,憎しみは一般的に非倫理的な感情affectusとはいえないとか,憎しみは一般的には非倫理的な感情であるけれど,例外的にそうでない場合がある,あるいは例外的に合倫理的な感情でもあり得るということは,僕は不条理であると考えます。なのでこれと同じ理屈によって,個別の愛amorがそれと別の愛を,たとえばXのうちにあるAに対する愛がBに対する愛を抑制したり除去したりするということはあるのだけれど,だからといって愛は一般的に合倫理的な感情であるとはいえないとか,愛は一般的には合倫理的な感情であるけれども例外的に非倫理的な場合もあるということも,本来は不条理ではないかと僕は思います。よって僕は愛は一般的に合倫理的な感情であるといいます。ただ,個別の愛がそれとは別の愛を抑制したり除去したりすることがあるということは紛れもない事実なのですから,その点を重視して,愛が一般的に合倫理的な感情とはいえないという見解についても,それを強く否定するnegareということはしません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/34/4b18a4c69b7b8b185d0654eefd7f1357.jpg)
僕は愛は一般的に合倫理的な感情であり,そのゆえに愛の反対感情である憎しみについては一般的に非倫理的な感情であるといいます。ただこのときに気を付けておいてほしいのは,これは各々の感情だけを,より正確にいうならば,各々の感情がその感情を抱いた人にどのような振る舞いをするように仕向けるのかという観点のみに注目しているのであって,その他の事情については何も考慮していないということです。もっともこの場合,憎しみは一般的に非倫理的な感情であり,この感情は第三部定理三九により,憎んでいる相手に害悪を与えるように仕向けるのですから,その他の事情というのは考慮する必要はなく,憎しみという感情を抱くのであればどのような事情があったとしてもそれは非倫理的であるということができます。しかし愛の場合はこれとは異なっていて,その他の事情まで考慮すれば,愛を抱いている人間が全体として合倫理的であるとは限りません。
僕は自身の棋力は大したことがありませんから,記事を書くにあたっては棋譜コメントや,現在であればAIの評価値や推奨手などを参考にします。その上で並べて検討します。それでも変化が大きい中盤は,僕の力では解明することが難しいということが僕自身がよく分かっていますので,それほど時間を掛けて考えることはしません。膨大な変化のすべてを並べることは物理的に不可能ですし,そもそもこのような局面は有利と不利という結論を出すことができるだけであって,一方の勝ちという結論を出せるわけではありません。
しかし終盤,とくに最終盤になるとこれとは違います。終盤は将棋というゲームの論理的に指すことができる手というのが限られていますから,中盤ほど膨大な変化は生じません。さらにひとつの変化を進めていけばどちらの勝ちかを結論付けることができます。ですから僕程度の棋力しかないとしても,時間を掛けて並べて考えることを,各々の変化について繰り返していけば,その変化のすべてについてどちらの勝ちであるのかということの結論を出すことができますので,そこからある局面まで遡って,たとえばこの特定の局面である特定の手を先手が指せば,先手の勝ちであったというように断定することができます。つまりこうした局面は時間を掛けて考える価値がありますから,その場合は僕も時間を掛けます。第42期棋王戦五番勝負第一局とか第33期竜王戦七番勝負第三局などは,明確な結論を出すところまではいっていませんが,かなり時間を使った結果として,一定の結論を出せたという記憶があります。
ところがどんなに時間を使って出した結論でも,間違えているということが稀に発生するのです。これから取り上げようとする将棋はまさにそれです。そうした個人的な事情でこの一局は僕の印象に残るところとなったのですが,それと同時に,正確な結論を示しておきたいという思いもあるのです。
確かに個別の憎しみodiumがそれと別の憎しみを,たとえばXのうちにあるAに対する憎しみがBに対する憎しみを抑制したり除去したりするということはあるのです。しかしだからといって,憎しみは一般的に非倫理的な感情affectusとはいえないとか,憎しみは一般的には非倫理的な感情であるけれど,例外的にそうでない場合がある,あるいは例外的に合倫理的な感情でもあり得るということは,僕は不条理であると考えます。なのでこれと同じ理屈によって,個別の愛amorがそれと別の愛を,たとえばXのうちにあるAに対する愛がBに対する愛を抑制したり除去したりするということはあるのだけれど,だからといって愛は一般的に合倫理的な感情であるとはいえないとか,愛は一般的には合倫理的な感情であるけれども例外的に非倫理的な場合もあるということも,本来は不条理ではないかと僕は思います。よって僕は愛は一般的に合倫理的な感情であるといいます。ただ,個別の愛がそれとは別の愛を抑制したり除去したりすることがあるということは紛れもない事実なのですから,その点を重視して,愛が一般的に合倫理的な感情とはいえないという見解についても,それを強く否定するnegareということはしません。
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僕は愛は一般的に合倫理的な感情であり,そのゆえに愛の反対感情である憎しみについては一般的に非倫理的な感情であるといいます。ただこのときに気を付けておいてほしいのは,これは各々の感情だけを,より正確にいうならば,各々の感情がその感情を抱いた人にどのような振る舞いをするように仕向けるのかという観点のみに注目しているのであって,その他の事情については何も考慮していないということです。もっともこの場合,憎しみは一般的に非倫理的な感情であり,この感情は第三部定理三九により,憎んでいる相手に害悪を与えるように仕向けるのですから,その他の事情というのは考慮する必要はなく,憎しみという感情を抱くのであればどのような事情があったとしてもそれは非倫理的であるということができます。しかし愛の場合はこれとは異なっていて,その他の事情まで考慮すれば,愛を抱いている人間が全体として合倫理的であるとは限りません。
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