スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

玉藻杯争覇戦&起成原因と本性

2021-02-07 19:13:13 | 競輪
 高松記念の決勝。並びは真杉‐平原‐阿部の関東と町田‐松浦の広島に守沢で松谷と東口と瓜生は単騎。
 平原と阿部のふたりがスタートを取りにいきました。同じラインですから真杉の前受けに。4番手に東口,5番手に松谷,6番手に瓜生と単騎の3人を挟んで7番手に町田で周回。残り2周のホームから町田が上昇開始。真杉はすぐにスピードを上げて突っ張る構え。町田は立て直して打鐘からまた前を追い掛けていきましたが,残り1周のホームの出口で真杉を叩けないまま力尽きました。町田が一杯になったので松浦が自力で発進。バックで前に迫ったところで平原が番手捲りを敢行。その後ろがマークの阿部と捲ってきた松浦で併走の併走の態勢。この競りを凌いだ松浦が,直線で抵抗する平原を差し切って優勝。平原が4分の1車輪差で2着。直線で松浦の外から伸びてきた東口が半車輪差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は1月の和歌山での岸和田記念以来の優勝で記念競輪8勝目。高松記念は昨年も優勝していて連覇となる2勝目。このレースは実力上位の平原と松浦が,それぞれ真杉と町田の番手回り。真杉と町田は先行意欲が高そうですから,先行した方の番手が有利になりそうだとみていました。平原と阿部がスタートを取りに行ったことから,このラインは前受けをして突っ張るという作戦だったのでしょう。その目論見通りに真杉が町田を出させないまま突っ張り先行に。ですから平原の方が有利だったのですが,町田は残り2周からの先行になってしまったため,平原も脚を使うことになってしまったのでしょう。松浦は町田を使って残り1周からの捲り発進になりましたので,それが逆転の要素になったといえそうです。

 第四論駁でアルノーAntoine Amauldが,無限infinitumであるものが存在することは無限であるものの本性essentiaに属するというときも,デカルトRené Descartesが,神Deusの広大無辺性が神が存在する理由である,つまり神が存在するために起成原因causa efficiensを有さない理由であるいっていることと同じであると考えなければなりません。つまり無限であるものの本性は,無限であるものの存在existentiaの起成原因なのではなく,無限であるものが存在するための起成原因を有さない理由であるとアルノーはいっているのです。アルノーは当然ながら第二答弁も読んだ上で論駁をしていると考えられますから,アルノー自身がいっていることをデカルトがこのように解するであろうことは,予期できていただろうと僕は思います。
                                        
 スピノザの哲学では,あるものの存在がそれ自身の本性から考えることができるのであれば,そうしたものは自己原因causa suiといわれるのであって,自己原因は起成原因です。いい換えるならそうしたものはそれ自身のうちにそれ自身の起成原因を有しているということになります。しかしアルノーとデカルトの場合はそうではなく,あるものの存在が起成原因によって考えられる場合と,それ自身の本性から考えられる場合の,ふたつの観点があったということになります。そしてアルノーからみると,因果性の論理が普遍的な原理であって,それが神にも適用されるとデカルトが主張するとき,デカルトはこのふたつの観点を混同していると思われたのでしょう。つまりスピノザの哲学からみると,デカルトはこのふたつの観点を相変わらずふたつの観点として把握しているようにみえるとしても,アルノーからはそうみえなかったということです。そしてこのみえ方の相違は,アルノーとスピノザの立場の違いに起因しているといえます。第四論駁の最後でアルノーは,神が積極的に自己自身によって存在するという命題に驚かない神学者を見出すことはできない,という主旨のことをいっています。つまり,アルノーにもある種の神学的観点が含まれているのであって,そうした神学的観点からみると,デカルトはふたつの観点を混同しているようにみえるのです。なぜならデカルトは,自己由来性を積極的に解するからです。

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