社会契約はホッブズThomas Hobbesが構築した概念notioです。スピノザがホッブズに言及している書簡に,イエレスJarig Jellesに宛てた書簡五十があります。いくつかの事柄について語られているので,まず書簡の概略を紹介しておきます。
イエレスに宛てたものなので原書はオランダ語だったと思われますが,スピノザ自身がラテン語に訳してあり,それが遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。1674年6月2日付です。
冒頭ではホッブズの国家論とスピノザの国家論の相違が語られています。これについてはいずれ詳しく説明します。イエレスの質問に答えたもので,イエレスはこの時点で『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読んでいたと想定されます。オランダ語版を出版しないように要請した書簡は1671年に出されていたものですから,フラゼマケルJan Hendrikzen Glazemakerによる翻訳はその時点で完成していて,イエレスはそれを読んだと判断するのが妥当ではないでしょうか。
次に,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の附録の形而上学的思想でスピノザが主張していることの説明があります。これは神Deusはひとつであると表現することは本来的には不適当であるということの補足です。第一部定理一四系一で神は唯一といわれていますが,その場合の「唯一」とはどういう意味でなければならないかがここで詳しく語られています。
次に形態は否定negatioであって積極的なものではないという見解opinioの説明があります。これは形態を有する物体corpusは第二部定義一によって有限finitumなので,第一部定義二によりほかのものに限定されます。限定と否定の間には一定の関係があるので,形態は否定であるという主旨の論述がされています。
最後にマンスフェルトRegner van MansveltというユトレヒトUtrechtの大学教授が『神学・政治論』を反駁した著書Adversus Anonymum Theologico-Politicumに関する言及があり,読む価値がないと断じられています。この部分もスピノザがラテン語に訳したのでそのまま遺稿集に掲載されたと思いますが,このようなあからさまな非難は書簡の中でも珍しいといえるでしょう。
第二部定理三七は,共通概念notiones communesの観念対象ideatumが個物res singularisの本性essentiaではないということを示します。すなわち一般性と特殊性の二者択一において,共通概念は一般性の範疇に含まれる思惟の様態cogitandi modiであることになります。
第二部定理三八と第二部定理三九は,共通概念が思惟の様態として十全adaequatumであるということを示します。したがって真理veritasと虚偽falsitasの二者択一において,共通概念は真理の範疇に含まれる思惟の様態であることが分かります。
一般性を示す思惟の様態が概念で,特殊性あるいは個別性を示す思惟の様態が観念ideaであるという点では「観念と表象」も『概念と個別性』も一致しています。そしてスピノザの特殊性と一般性の考え方は,特殊的あるいは個別的なものが十全であり,一般的あるいは普遍的なものが混乱しているというものでした。つまり共通概念には,概念としての性質と観念としての性質の両方が含まれていることになります。僕がみる限り柄谷にはなくて朝倉にはあるのがこの視点です。朝倉は共通概念とは,思惟の様態として中間的な位置付けにあるものと規定しているからです。もちろん中間的ということの意味は,一般的でありながら十全である思惟の様態ということです。
ここから推定できるのは,スピノザは共通概念をことばで表現するときには,実際にそうしているように概念ということもできましたが,観念ということもできたのではないかということです。それなのにスピノザはこの思惟の様態を共通概念といい,共通観念とはいわなかったのです。したがってこの選択にはスピノザの意図があったのではないかと推測できるのです。
概念と観念にどのような差異があるのかを,柄谷や朝倉に従って理解するなら,このスピノザの選択の意図は明白だといえるでしょう。すなわちスピノザは共通概念という思惟の様態に対して,そこに含まれている真理性よりは,一般性の方を重視したということです。そこでまず,スピノザがどういう文脈で概念という語句を用いているのかについて,ごく簡単にではありますが検証しておくことにします。
イエレスに宛てたものなので原書はオランダ語だったと思われますが,スピノザ自身がラテン語に訳してあり,それが遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。1674年6月2日付です。
冒頭ではホッブズの国家論とスピノザの国家論の相違が語られています。これについてはいずれ詳しく説明します。イエレスの質問に答えたもので,イエレスはこの時点で『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読んでいたと想定されます。オランダ語版を出版しないように要請した書簡は1671年に出されていたものですから,フラゼマケルJan Hendrikzen Glazemakerによる翻訳はその時点で完成していて,イエレスはそれを読んだと判断するのが妥当ではないでしょうか。
次に,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の附録の形而上学的思想でスピノザが主張していることの説明があります。これは神Deusはひとつであると表現することは本来的には不適当であるということの補足です。第一部定理一四系一で神は唯一といわれていますが,その場合の「唯一」とはどういう意味でなければならないかがここで詳しく語られています。
次に形態は否定negatioであって積極的なものではないという見解opinioの説明があります。これは形態を有する物体corpusは第二部定義一によって有限finitumなので,第一部定義二によりほかのものに限定されます。限定と否定の間には一定の関係があるので,形態は否定であるという主旨の論述がされています。
最後にマンスフェルトRegner van MansveltというユトレヒトUtrechtの大学教授が『神学・政治論』を反駁した著書Adversus Anonymum Theologico-Politicumに関する言及があり,読む価値がないと断じられています。この部分もスピノザがラテン語に訳したのでそのまま遺稿集に掲載されたと思いますが,このようなあからさまな非難は書簡の中でも珍しいといえるでしょう。
第二部定理三七は,共通概念notiones communesの観念対象ideatumが個物res singularisの本性essentiaではないということを示します。すなわち一般性と特殊性の二者択一において,共通概念は一般性の範疇に含まれる思惟の様態cogitandi modiであることになります。
第二部定理三八と第二部定理三九は,共通概念が思惟の様態として十全adaequatumであるということを示します。したがって真理veritasと虚偽falsitasの二者択一において,共通概念は真理の範疇に含まれる思惟の様態であることが分かります。
一般性を示す思惟の様態が概念で,特殊性あるいは個別性を示す思惟の様態が観念ideaであるという点では「観念と表象」も『概念と個別性』も一致しています。そしてスピノザの特殊性と一般性の考え方は,特殊的あるいは個別的なものが十全であり,一般的あるいは普遍的なものが混乱しているというものでした。つまり共通概念には,概念としての性質と観念としての性質の両方が含まれていることになります。僕がみる限り柄谷にはなくて朝倉にはあるのがこの視点です。朝倉は共通概念とは,思惟の様態として中間的な位置付けにあるものと規定しているからです。もちろん中間的ということの意味は,一般的でありながら十全である思惟の様態ということです。
ここから推定できるのは,スピノザは共通概念をことばで表現するときには,実際にそうしているように概念ということもできましたが,観念ということもできたのではないかということです。それなのにスピノザはこの思惟の様態を共通概念といい,共通観念とはいわなかったのです。したがってこの選択にはスピノザの意図があったのではないかと推測できるのです。
概念と観念にどのような差異があるのかを,柄谷や朝倉に従って理解するなら,このスピノザの選択の意図は明白だといえるでしょう。すなわちスピノザは共通概念という思惟の様態に対して,そこに含まれている真理性よりは,一般性の方を重視したということです。そこでまず,スピノザがどういう文脈で概念という語句を用いているのかについて,ごく簡単にではありますが検証しておくことにします。
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