6日の平塚記念の決勝。並びは天田-永沢の東日本91期,松坂-桐山-林-加藤-望月の南関東,深谷-田中の西日本。
スタートを永沢が取って天田の前受け。深谷が3番手で5番手から松坂で周回。残り2周前から松坂がじわじわと上昇。ホームでは深谷を抑え込み,バックで天田の前に出て先行。天田は引けなくなり,南関東分断を試みましたが,桐山にも林にも競り負けて失敗。引いて後方から発進した深谷はバックで捲る勢いも桐山が番手発進で対抗。コーナーで桐山自らが深谷をブロックし,一瞬はピンチかと思いましたが立て直して捲りきり優勝。離れそうになりながら懸命に続いた田中が4分の3車身差の2着で西日本のワンツー。桐山マークの林が半車輪差で3着。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年2月の高松記念以来となる記念競輪7勝目。平塚記念は初優勝。ずいぶんと優勝から遠ざかっていたものですが,力量が上であることは安定した成績からはっきりとしていました。地元勢の抵抗をかいくぐれるかどうかが最大のポイントでしたが,振られても捲りきった内容はとても強かったと思います。多数の有力選手が競走に参加できない状況になっていますので,これまで以上に頑張ってもらわなければなりません。
デカルトは自分の哲学と創世記との関連については自覚的でした。そして慎重でした。スピノザは原因ということで,一義的に起成原因を意味させます。その理由はすぐ明らかにしますが,松田が理解するデカルトの公式見解を起成原因に当て嵌めるなら,神は起成原因を有しないというものです。つまりデカルトはどんな事物にも存在の原因を問うことは可能であるといいつつ,起成原因なしに存在するものがあるといっていたことになります。
スピノザが看破したように,これは詭弁です。もっともデカルトが置かれていた状況を察してやれば,詭弁というのはいい過ぎかもしれません。方便とでもいっておくのが適当でしょうか。松田がいう公式見解というのは,あくまでも表向きのものであったと僕は思います。つまりそれはデカルトの本心ではなかったでしょう。
スピノザは哲学する自由を死守するためであれば,ユダヤ教会から破門されること,つまりはユダヤ人共同体から追放されることも辞しませんでした。というよりも積極的に甘受しました。僕は仮説として,スピノザにとって自由の概念は,哲学する自由としてよりも,まず経済的自由という概念として生じたのではないかといいました。それはスピノザと貿易との関係,スピノザの実体験からです。スピノザが貿易に携わったのは,マラーノの商人の家庭に産まれ,育ったからです。僕の仮説が正しいのなら,スピノザはマラーノとして産まれたからこそ,そのマラーノの共同体から追放されることになったという一面があり,これは何とも皮肉なことだといえます。
こういった事情ですから,スピノザはデカルトが慎重になった地点で,同じような態度をとる必要性がありませんでした。あるいはそういう態度はスピノザにはとれなかったという方が正確でしょう。ですからデカルトが,おそらくは踏み越えたかったであろうけれども留まった一線を,スピノザはあっさりと踏み越えてしまいます。『エチカ』が自己原因を定義した第一部定義一から開始されているのは,スピノザによるその宣言であるといえなくもありません。そしてこれは松田の見方でもあります。
スタートを永沢が取って天田の前受け。深谷が3番手で5番手から松坂で周回。残り2周前から松坂がじわじわと上昇。ホームでは深谷を抑え込み,バックで天田の前に出て先行。天田は引けなくなり,南関東分断を試みましたが,桐山にも林にも競り負けて失敗。引いて後方から発進した深谷はバックで捲る勢いも桐山が番手発進で対抗。コーナーで桐山自らが深谷をブロックし,一瞬はピンチかと思いましたが立て直して捲りきり優勝。離れそうになりながら懸命に続いた田中が4分の3車身差の2着で西日本のワンツー。桐山マークの林が半車輪差で3着。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年2月の高松記念以来となる記念競輪7勝目。平塚記念は初優勝。ずいぶんと優勝から遠ざかっていたものですが,力量が上であることは安定した成績からはっきりとしていました。地元勢の抵抗をかいくぐれるかどうかが最大のポイントでしたが,振られても捲りきった内容はとても強かったと思います。多数の有力選手が競走に参加できない状況になっていますので,これまで以上に頑張ってもらわなければなりません。
デカルトは自分の哲学と創世記との関連については自覚的でした。そして慎重でした。スピノザは原因ということで,一義的に起成原因を意味させます。その理由はすぐ明らかにしますが,松田が理解するデカルトの公式見解を起成原因に当て嵌めるなら,神は起成原因を有しないというものです。つまりデカルトはどんな事物にも存在の原因を問うことは可能であるといいつつ,起成原因なしに存在するものがあるといっていたことになります。
スピノザが看破したように,これは詭弁です。もっともデカルトが置かれていた状況を察してやれば,詭弁というのはいい過ぎかもしれません。方便とでもいっておくのが適当でしょうか。松田がいう公式見解というのは,あくまでも表向きのものであったと僕は思います。つまりそれはデカルトの本心ではなかったでしょう。
スピノザは哲学する自由を死守するためであれば,ユダヤ教会から破門されること,つまりはユダヤ人共同体から追放されることも辞しませんでした。というよりも積極的に甘受しました。僕は仮説として,スピノザにとって自由の概念は,哲学する自由としてよりも,まず経済的自由という概念として生じたのではないかといいました。それはスピノザと貿易との関係,スピノザの実体験からです。スピノザが貿易に携わったのは,マラーノの商人の家庭に産まれ,育ったからです。僕の仮説が正しいのなら,スピノザはマラーノとして産まれたからこそ,そのマラーノの共同体から追放されることになったという一面があり,これは何とも皮肉なことだといえます。
こういった事情ですから,スピノザはデカルトが慎重になった地点で,同じような態度をとる必要性がありませんでした。あるいはそういう態度はスピノザにはとれなかったという方が正確でしょう。ですからデカルトが,おそらくは踏み越えたかったであろうけれども留まった一線を,スピノザはあっさりと踏み越えてしまいます。『エチカ』が自己原因を定義した第一部定義一から開始されているのは,スピノザによるその宣言であるといえなくもありません。そしてこれは松田の見方でもあります。