スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

別府八湯ゆけむりカップ&定義からの帰結

2014-05-27 19:04:46 | 競輪
 全プロがあったので2週間ぶりとなった別府記念の決勝。並びは及川-菊地の北日本に立花,後閑-木暮-山下の関東,菅原-小野-小倉の西国。
 スタートを取った後閑の前受け。4番手に菅原,7番手に及川で周回。残り2周のホーム入口で,菅原が山下との車間を開けて及川を牽制。及川はホームに入ってから発進。菅原は飛びつきを狙っていたのかもしれませんが失敗。前で待っていた後閑が立花をどかして3番手に割り込んで打鐘。ここから菅原が発進し,ホームでは及川を叩きましたが小野が離れたため単騎に。バックから後閑が発進。遅れていた小野が木暮の横まで追い上げていたこともあり,これも単騎の捲りに。小野の後ろから小倉が後閑にスイッチし,小倉の後ろを菊地が追う形になり直線。小倉もある程度は差を詰めましたが,粘った後閑が優勝。1車輪差の2着が小倉。2車身差の3着が菊地。
 優勝した東京の後閑信一選手は昨年9月のオールスター競輪以来のグレード制覇。記念競輪は2011年10月の京王閣記念以来で通算21勝目。別府記念は1997年の前節を優勝していて17年ぶりの2勝目。オールスターを優勝した後は苦しんでいたのですが,前の開催あたりから調子を取り戻しているように見受けられ,この開催もそれを維持できているようでした。この年齢で自力で勝負するというのは並大抵のことではなく,それだけにいつもいつも良い結果を残すというわけにはいかないでしょうが,体調さえ整えばまだまだやれるということを証明してみせましたので,優勝回数はまだ増やしていくことが可能であるように思います。

 無限様態の永遠性第一部定義八から理解するためには,無限様態がこの定義に該当するような事物であるかどうかを確認しておかなければなりません。つまり無限様態の永遠性というものが,無限様態の定義のみから帰結するということを確かめておく必要があるでしょう。
 スピノザは事物の定義と事物の本性を等置します。この点だけに注目するなら,それ自身の本性からそれ自身の存在が帰結するものだけが,永遠性を有すると解されなければなりません。この場合,無限様態は永遠であることは不可能です。第一部定理二三が示しているのは,直接無限様態は神の絶対的本性を原因として存在し,間接無限様態は直接無限様態を原因として存在するのであり,これ以外のいかなる仕方でも無限様態は存在しないということだからです。いい換えれば無限様態は外部の原因によって存在するのであり,それ自身の本性によって存在するのではありません。なのでこの点を重視するなら,僕がいっていることよりも松田がいっていることの方が正しいということになります。
 ただし,確かにスピノザは事物の定義とその事物の本性を等置するのですが,事物の定義の要件としては,その事物の本性と発生が含まれているということを示しています。この条件に依拠するならば,無限様態の定義には,その無限様態の発生が含まれるということになります。そしてこの場合の発生が含まれるということを,僕はその存在が含まれるということだと理解します。したがってこの観点からは,無限様態の定義には,無限様態の存在が,何らかの仕方で含まれる筈です。そしてこのように無限様態が定義される限り,その定義からは無限様態の永遠性が必然的に帰結すると僕は考えます。このように理解できるなら,僕のいっていることが正しく,松田のいっていることが誤りであるということもできるでしょう。
 スピノザは実際には無限様態に定義を与えていませんので,何ともいえないのは事実です。ただ第一部定義八で,その本性から存在が帰結するものを永遠とはいわず,その定義から帰結するものが永遠であるとしたことには,この点へのスピノザの配慮があったものと考えます。
コメント
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