スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

飾らない性格&自由意志の主体

2006-10-20 22:47:38 | NOAH
 丸藤選手が新チャンピオンになったとき,彼の飾らない性格が三沢選手にも相通じるという意味のことをいいました。今日は三沢選手のエピソードを紹介します。全日本プロレス時代,三沢選手が初めて三冠王者になったのが1992年の8月。その翌日のスポーツ紙の一面に,チャンピオンになったのだからだれの挑戦でも受けると,当時,新日本プロレスで三沢選手のライバルと見られていた武藤選手の名前の載った記事が掲載されました。そのまま読むとこれは三沢選手があたかもそういったかのように読める記事でしたが,これは一部プロレスメディアの悪い手法で,要はそうなってほしいということをこのように載せるわけです。ただ,新聞の一面に大々的に報じられるわけですから,選手の方でもよい宣伝にはなるわけで,持ちつ持たれつというような関係になっていることも確かです。マイクパフォーマンスにも見られるように,プロレスはリングの上だけではなく,口でもするものだというのが一般的な考え方かもしれません。しかしこのときの三沢選手は,自分はそんなことを言っていない,言っていないことを書かれては困ると,抗議しました。三沢選手にとっては,たとえそれが大きな宣伝になるとしても,自分はそんな大きなことを言う人間ではないという,人間性の部分を傷付けられることの方が腹立たしかったのだと思われます。つまり,プロレスラー・三沢光晴は,ひとりの人間としての三沢光晴以上であっても以下であってもならないというのが三沢選手の基本的な考え方なのでしょう。これは,実はプロレスラーとしてはむしろ稀有な存在なのではないかと僕は思っています。
 明日から京王閣記念です。

 人間には自由意志というものはないというのが僕の結論になりました。そして同時に,自由意志とことばではいえるけれども,それがどういう意志であるのか,すなわち,それ(自分)自身だけを原因としてそれ自身のうちに生じてくる意志,あるいは,スピノザ哲学のいい方をするなら,それ自身が第三部定義一でいわれる十全な原因となってそれ自身のうちに生じてくるような意志については,それがどのような意志であるのかということについて,それをおぼろげながらであってもイメージ(表象)することさえ困難になってしまいました。つまり,単に自由意志の主体となるものがどういう存在であるのかを考えていく前に,そもそも自由意志とはどんな意志であると考えればいいのかが分からなくなってしまったのです。そしてこれを考えているうちに,僕はどういう理由からか忘れてしまったのですが,あらぬ方向から自由意志というものをイメージするようになり,それがスピノザの哲学へと回帰する直接的な原因となったのです。
コメント
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