38歳からの百姓志願~実践編。

霊峰・石鎚を仰ぎ、瀬戸内の陽光を望む愛媛県西条市、「有機菜園 藤田家族」無農薬・無化学肥料の野菜と暮らし。

箸の作法、醤油の心得。

2013年11月02日 | 農と暮らしの日記
遅れていたあれこれの定植を次々に。
これは、ほうれん草。春作ではこの「移植型」のほうれん草がまあまあうまくいったので、秋冬もこれでと思って苗を次々につくったのだけれど、9月から10月に植え付けたものは、どうも多雨と高温のせいなのだろうか、植えてからしばらくするとことごとく溶けるように消えてしまい、なかなか収穫に至るまでに育ってくれない。
そろそろ物になってくれないと、困るのだが……。



土曜、世の中3連休の初日。ほぼ終日の曇り空。
午前:上記のほうれん草など、あれこれの苗の植え付け、そして種播きも少し。
大根、小松菜、蕪は今季初めてのトンネル掛け。いよいよ本格的に「冬作」という感じになってきた。
午後:午前の続きであれこれ畑仕事。明日は雨の予報が出ているので。

日本シリーズは第6戦、田中投手が今季初の敗戦で勝負は明日の最終戦へ。
楽天は沖原佳典が(たぶん)二軍コーチということもあり、がんがんいってほしい。



NHKラジオの「文芸選評」、今日は俳句。
入選作の中に、上の句を忘れたが「……箸の不思議や、文化の日」というのがあった。箸の使い方には多くの作法があるということを詠んだものだということで、作者は電話口で、それを孫にうるさく言って嫌われると話していた。

真が作文に食卓のことを書き、昨日の人権学習の会で発表したという。
その中で、父親(僕)が作法にうるさいと書いていたというのを聞いて、自分でもそうだなと思った。左手は茶碗を持つか添えるかしなさいというのは当然として、茶碗や皿の位置、大皿から銘々皿への取り分け方とか食べる順序とか、魚を食べたら骨は皿のどこにどういうふうに揃えておくとか、味噌汁を飲んで味噌かすが椀の底に残るようじゃいけないとか、まあ、それはそれはうるさいことだろうというのは自覚している。
自分のことは棚に上げて。

僕自身は、中学校に入っても箸が正しく持てなかった。
というのを特段に意識したことはなかったのだが、あるときに母が、「敏は箸もよう持たんのか」と親戚から言われて恥ずかしかったというのを聞き、これは大変だと思ったことは記憶している。それがおそらくきっかけで、箸の持ち方をようやく覚えた。

そういえば、と思い出したのは河野太郎の話。
新聞の「親父のせなか」だったかの記事で幼少期を回顧し、寿司屋に行ったとき、食べ終わって醤油が皿に残っているのを見た父(河野洋平)から、自分で必要な醤油の量もわからないのかとひどく叱られたということを書いていた。同じようなことは向田邦子も子ども時代の思い出として書いていて、魚の煮汁が皿に残れば湯をさして吸い物にしたという、それは昔の人が塩分をいかに貴重なものと考えていたかということだろう。

僕もなぜか、いつからなのかわからないが、醤油を皿に残さない。
残さないということは「ちょうど」なのではなく、たいていは「足りない」のである。明らかに足りないくらいにしないと、必ず残ってしまう。世の中に「ちょうど」はなく、足りるか余るかのどちらかなのだ。「ちょうど」ということがあり得ると考える人生と、「足りるか余るかしかない(そのとき、どちらを選ぶか)」と考える人生とでは、生き方が違ってくるような気がする。

そうして自分の周りを見れば、そこかしこに余っているものがあふれている。
それは豊かであるように感じられもするし、ときによっては居心地の悪さにもつながる。
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