ノイバラ (大井戸公園 08-5-19)
待っていた映画「ひめゆり」を見に十三(じゅうそう)に行ってきました。一応、主人にも声を掛けたのですが、行かないというので1人で行ってきました。
一日に一回(14:30)1週間だけの上映です。キャパ120ぐらいの小さな会館に60人ぐらいでしたでしょうか。「盆休み以外は《靖国》程込まないでしょう」と言う事でした。此処で上映するのは2度目なんです。今日いただいた予定表によると、19:30からの1週間が追加になったようです。
泣くのを覚悟で行きました。しかし一滴も涙は出ませんでした。泣いている暇がないというか、次から次ぎえと場面が展開していきます。ひめゆり生存者の人たちも言っていました「友が死んでいっても、一滴の涙も出なかった。人間本当に悲しいと涙もでないのです」と…。2時間30分があっという間に過ぎていきました。
「ひめゆり」は3部作になっています。
監督の柴田昌平産は制作意図をこう述べています。
『この映画を作り始めたのは、今から14年前に遡ります。人づてに「ひめゆりの人たちが体験をきちんと記録したがっている」と言う話を聞きました。「なぜ?」最初、私はびっくりしました。というのも、ひめゆりについての映画やテレビ番組は何度も制作されていたので、今更何故なのだろう、と素朴に思ったのでした。
しかし実際にお会いしてみると、私がわかったつもりになっていたのはあまりに表面的なことに過ぎないという事に愕然としました。何よりも、生存者お一人お一人が実に個性的だということに驚きました。戦争体験から受ける印象は悲惨です。しかし、ひめゆりの生存者からはしっかりと生きている強さを感じます。其れは彼女達の根っからの明るさ、やさしさ、そして生命への信頼感があるからです。この映画は、今を生きる私達に多くの示唆と希望を与えるものと信じます』
ひめゆり学徒生存者 木村つるさんは
『この映画は、生き残った者の真実の叫びであり、亡くなった友への心の奥底からの鎮魂の思いを綴ったものです。生存者はほとんどが80歳を越えました。いつかは消えてなくなります。でも何年たってもこの映画は、ひめゆりの記憶を後世に確かに語り継ぐ大事な財産になるだろうと信じています』語り部は22名の人たちです。未だに語りたくない人たちもおられるようです。
冊子の表紙にこう書いてあります。
1945年6月23日 沖縄戦が終わった…日
「忘れたいこと」を話してくれてありがとう
演出家の宮本亜門さんは言います
『私の一生のお願いです。「ひめゆり」を観てください。出来れば世界中の人に観てほしいのです。次の世代に伝えて欲しい、現実を感じて欲しい。心がここに詰まっているからです』
私もそう思います。1人でも多くの人が見てくださればと思います。夫々の地方の小さな映画館、市民団体の後援などで上映されています。お目に止まれば是非足を運んでください。
ひめゆりは人手の足りない病院に看護の手助けとして、動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立高等女学校の女生徒のことです。現場は弾の飛び交う戦場です。自分達も命がけで負傷兵を看護するのです。ひめゆりと同じ年頃の今の中高生に見せたいです。そして平和の世の中のありがたさを感じてもらいたい。
生存者の1人が言いました『機銃掃射でやられた友人は言います「助けて!」皆生きたいのです。お国のため、天皇陛下のため死を覚悟でも、実際は生きたいのです。捕虜になるなと教えられ、捕虜になるくらいなら自決せよと教えられました。いのち軽視の教育です。間違っています。友は自決する前にお母さんの顔を見たいといいました。家族を思い「故郷」を歌いました』
亡くなった友の写真の前で(ひめゆり学徒隊は222人、123人が死亡)こう言った人も居ます『彼女達はこんなに若いままです、もう私の孫の世代です。平和を知らないで死んだ彼女達に、平和の時代の土産話をいっぱい持って行こうと思っています』
ヒロシマの子ども達も原爆生存者に言いました。
「原爆を生き抜いてくれたからこそ、私達が居る」
命は助かっても、原爆症の為に苦しみながら生きている人たちにこれ以上の嬉しい言葉があるだろうか。