緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

NLPで対人恐怖症は改善されるのか(7)

2023-08-27 23:02:30 | 心理
B. 自己否定と強迫的衝動を原因とする恐怖の解決に向けて

Ⅱ 恐怖感情の肯定 過去から現在までの生き様の肯定

(前回からの続き)

無意識で「自己否定」していることに気が付くことの重要性について改めて考えてみたい。
この、無意識で「自己否定」していることに心底気が付かなければ、どんな心理療法を数多く受けても、改善すべく行動を繰り返しても対人恐怖は改善しない、と私は自分の体験から考えている。

逆にこの無意識の自己否定の「自動回路」に気が付くことが出来たならば、改善を意図した意識的、強制的な行動をしなくても、本来の人間が根源的に備え、持っている矯正作用が自然に働いていくと思ってよいだろう。

私は潜在意識で絶えず発動している自己否定の「自動回路」に気が付いた(意識化できた)ことで、流れが大きく変わった。180度変わったといっていいかもしれない。
自己否定が心に及ぼす影響が理解出来れば、自動回路を停止させることが出来る。
自己否定の自動回路こそが絶え間ない苦しみを生み出していたからだ。
行動を起こす前にまず第一にこのことに気付くことが絶対に必要だ。

このことに気が付かず改善のための行動を取ると、無意識のうちに自己否定の自動回路に従った選択と行動をとってしまい、苦しみが強化されることはあっても改善することは無い。経済的にも時間的にも大きな損失を被りかねない。
さまざまな心理療法を渡り歩くというのも、このことが原因ではないかと思う。

そのためには前回までの記事に書いたように、日々の絶え間ない、自己観察と内観が必要となる。
ただ自己否定の「自動回路」に気が付くことができたとしても、それを破壊するためには長い年月が必要となるということだ。
たった1日で取れるというものではない。
薄紙を1枚、1枚、丁寧にゆっくりと剥がしていくという作業が必要となる。
じっと忍耐するしかない。きっとこれで良くなっていく、必ず長く暗いトンネルを抜け出すことを信じて!。
しかしこのプロセスを経ることにより、自分の苦しみが後戻りすることなく、確実に前進していくことが出来る、という実感を感じ取ることが出来る。
長い階段をゆっくりと一段、一段ずつ登っていくけど、引き返すことはない、という感覚に近い。ゆっくりとした速度だけど確実に前進しているので、将来に希望を持つことが出来るからである。

あと重要なことは、感情はその人の本質とは関係ない、ということである。
つまり、「恐怖」、「怒り」、「憎しみ」などのマイナス感情があったとしても、根源的な意味において、その感情とその人の人格とは無関係ということだ。
「恐怖」があるから自分に対し、良い、悪いなどの評価を下すことは無意味ということだ。
そのことについてもう少し考えてみたい。

「恐怖」などの感情は、過去の体験で得た記憶情報、すなわち過去に恐怖感情が起きた体験に対して自ら判断し選択した「解釈」、「受け止め」、「観念」、「価値観」などにより、今目の前で起きている出来事や状況に対して反応して起こっているもの、と言える。
すなわち恐怖感情発生の契機となっている、これらの「解釈」、「受け止め」、「観念」、「価値観」などは常に変化するものであり、その人の根源的な本質ではないということなのだ。
仮にある体験に対し、「自己否定」という「解釈」、「受け止め」を選択し、それを「価値観」、「観念」としたならば、その後その体験と同じ体験をするたびに、潜在意識に刷り込まれたこれらの情報により「恐怖感情」が起きてくるのである。
恐怖感情自体がおかしいものでもないし、問題ではない。
むしろ、体験に対して不適切な「解釈」、「受け止め」、「観念」、「価値観」をリンクさせ、強化し、定着化たことが問題なのである。

そのため、昔からこの恐怖感情発生の基となっている、不適切な「自己否定」の受け止めや観念を適切な、恐怖を起こさせないものに変換することが心理療法で行われてきた。
伝統的なロジャース派による心理療法(対談者中心療法)においても、来談者(クライアント)の過去の記憶体験に遡り、カウンセリング技術により、来談者にこの「苦しみ」の元になった体験とそのときにとらざるを得なかった、「受け止め」、「自分への評価」、そしてそれらが「価値観」や「信念」にいたるまで定着した事実を意識化し、気付きを与えることで、来談者自らがこの不適切な感じ方を矯正できるように働きかけることを目的として行われていたと考えられる。

しかしこの方法は非常に長い年月と時間を要し、来談者自身が苦しみの原因となっている無意識の「自己否定」に気付くことが出来なければ、成功しない。そのため、1990年代後半頃から、なかなか改善しない来談者中心療法に不満を持つ人の受け皿として、短期解決を謳い、問題に対するアプローチや解決方法に具体性のある方法が現れ始めるようになった。

対人恐怖症の解決に対して、伝統的なロジャース派による心理療法(対談者中心療法)が困難であることが分かり始めてから、NLPの他、TFT(思考場療法)、認知行動療法、インナーチャイルドによる癒し、催眠イメージ療法、観念浄化など、従来のカウンセリングといった単純な対話といったやり方ではなく、具体的な作用をを用いる方法が広まるようになってきた。1990年代後半頃のことである。

TFTは別として、これらの療法のねらいは結局、先に述べたように苦しみの感情の基になっている(苦しい感情とリンクしている)、過去の体験を契機として定着化させた不適切と言える自己否定の観念を変化させることにあると言える。
イメージや行動で観念を浄化したり、上書き、書き換えしたりする方法である。
私はこれらの療法も全て試したが、その時は「自己否定」の自動回路が固く定着していることに完全に気が付くことの出来ない頃だったので、何度実行しても効果が得られなかった。
実際、これらの療法は短期間での解決を謳っているので、浄化や記憶の上書きといった手法が強調され、潜在意識に根付いた自己否定に焦点を当て、この自己否定の構えこそが苦しみの元凶であることを気付かせることに対しては重点を置いていない。
だから気付いていないのにワークをやるから何度繰り返しても効果が出ないのも当然と言える。
仮に気が付くことが出来たとしてもその自己否定の構えや自動回路を変えていくことが並大抵のことではないことはすでに述べた通りである。
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若干カチカチ音付きアルハンブラ

2023-08-27 22:20:31 | ギター
今日は東京某町で社会人マンドリンクラブの合奏練習があった。
今日の練習会場は初めてだったのだが、自分の音はいい音で聴こえてくるのに、離れた場所に位置する他パートの音は他の練習会場に比べるとあまり聴こえてこないという、ちょっと不思議な音響の練習会場だった。

本番(9月10日)まであと2週間ほどを残すのみとなったが、個人練習としては不安を残す部分を中心に最後の追い込みとなる。

・入りの難しいところ
・技巧の難しいところ
・テンポを合わせるのが難しいところ。
・音量のコントロールの難しいところ

だいたいこんなところかな。

合奏練習後は反省会に参加。
今日の反省会はかなり楽しかった。
ビールだけなら多少飲んでも酔いが回るということはないので次の日が楽なのである。

帰宅後くつろいだところで、独奏曲(いつものやつだが)を弾いて、疲れを癒すことに。

乾燥肌の猛烈なかゆみを引っ掻いた爪で弾いた、カチカチ音付きアルハンブラ 2023年8月27日夜

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NLPで対人恐怖症は改善されるのか(6)

2023-08-27 00:13:08 | 心理
B. 自己否定と強迫的衝動を原因とする恐怖の解決に向けて

Ⅱ 恐怖感情の肯定 過去から現在までの生き様の肯定

恒常的な恐怖の原因を前回の記事で取り上げた。
常に恐怖を感じることは苦しい。経験した人でないと分からないと言っていい。対人恐怖者の殆ど全ての人が、一刻でも早くこの辛い恐怖を無くして幸福になることを渇望する。
あまりにも辛く苦しいため、藁をもすがるという心境であろう。
そのため精神科で薬を処方してもらったり、速効性を謳う魔法のような心理療法に飛びつく。しかしこの試みはまず失敗に終わる。
何故か。その理由を考えてみたい。

まず最も重要なことは、これらの解決しようとする行動の背景にある動機が、恐怖を憎む、拒否する、排除しようとする点にあることである。
恐怖を無くしたい、消したいと願うことは、今目の前に危険があろうがなかろうがまさに恐怖を感じているありのままの実際の自分を否定していることと同じことなのである。
「こんなお前では物凄く嫌だ。早く目の前から消えろ。いなくなってしまえ。」と言っているのに等しいのである。
そうすると、その否定されたありのままの実際の自分は、恐怖を感じている自分を理解してもらおうとますます激しく抵抗してくるのではないだろうか。痛みを分かってもらおうと泣き叫ぶ小さな子供に、「そんなことくらいで泣くな」、と言うとますます激しく泣き叫ぶのと同じことなのだ。
このジレンマに気付かず、恐怖を無くすという視点、動機で解決しようとしている限り、一生、苦しみ続けることになるであろう。

このジレンマを解決するためには、前回の記事に書いたように、この苦しみを持つに至った自らの生き様を受容し、いたわり、肯定してあげる以外に方法は無い。
ボロボロに傷ついた自分を、「辛かったね、怖かったね」、とその自分が本当に望んでいることを言ってあげるのである。
これは本当の気持ちでないと通じない。
心理学に本に書いてあったから試してみた、といったような、実は恐怖を無くしたいという本当の動機が隠されていたとしたら上手く行かない。
しかし、自分の今までの生き様を振り返り、その壮絶さが真に理解できたならば、恐怖を無くそうという、気持ちは起きなくなると思う。
逆に、恐怖のままでいいんだ、という心境になるのではないだろうか。これだけ恐ろしい体験をしたんだから、24時間、誰に対して恐怖を感じて当たり前なんだ、当然のことなんだ、という感じ方に変わるのではないかと思う。

また、恐怖があると人から変に思われる、嫌われる、相手にしてもらえない、という感じ方にも注目する。意識していても、意識できていなかったとしても、この感じ方に常に支配されていると、苦しみから抜け出すことは出来ない。
意外に、対人恐怖症の人に対し、殆どの人が何とも思っていないのである。もしかすると気の毒だと思ってくれる優しい人もいるのである。
極く稀に、対人恐怖を奇異に思ったり、馬鹿にする人がいるが、そのような人は間違いなく心の病んだ人なのである。そのような人は対人恐怖症者でなくても人を馬鹿にすることで、かろうじて心のバランスを維持して生きようとする後ろ向きのつまらない弱い人間に過ぎないのである。

「対人恐怖は自分の人格とは無関係だ。単に外に現れている反応に過ぎない」、「対人恐怖で何が悪い」、「俺は対人恐怖でもいい。今までの人生で対人恐怖になるべくしてなってしまったのだ。そういう自分を今すぐに変えようと思っても出来ない。もうこれで生きていくしかない」、といった感じ方をしてみて欲しい。
恐怖は感じていても、同時で別の感情として、何か「地についたような安心感」ような感情が起きてくるはずである。
恐怖があったら人は受け入れてくれない、馬鹿にされると思って、必死に恐怖を克服しようするふるまいを続けているときに感じる避けがたい大きな不安感とは天と地ほどの差があることに気が付くに違いない。
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