世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

キャンデーお姉さん→飴おばちゃん

2006年04月17日 23時56分36秒 | Weblog
最近、部内の座席が微妙に変化した。
目の前には後輩殿方がやってきた。
こりゃまた、若い。
若いんである。
ピチピチでナウなヤングなんである。

会話の弾み方も早いし、仕事も早い彼。
二人で残業していて、気付いたら20時30分を回ることもしばしば。
「きっと彼は、お腹空いているんだろーなー?」という想像をして、私は、ついキャンデー等をあげてしまうんである。
「ありがとうございますッ」
素直に舐め出す彼。
なんて、眩しいんだろう。

そう言えば、うちの母親もそうだった。
「若い男の子は、いつもお腹が空いているものだ」という勝手な固定概念から、
家に遊びに来た弟の友達に、いつもラーメンやお好み焼きを振る舞っていた。
そんな母の姿を見ているうちに、私の中で妙な「与える愛」が育っていったものだと思われる。

明日も明後日も、…多分、向日葵が咲く頃まで、我々の残業は続くだろう。

彼にとって、キャンデーをくれる「お姉さん」的存在の私が、
飴をくれる「おばちゃん」に変化しないことを切に願う。

「いま、会いにゆける…かも?」

2006年04月17日 23時49分22秒 | Weblog
昨夜、テレビで放送されていた「いま、会いにゆきます」を観た。

内容については、よく分からん。
特に終盤の、時空を越えたエピソードのからくりが全くもって分からん。
映画も観たし、小説も読んだのに。分からん。

「自分の頭は、たっ君と同じなのではなかろうか?」と疑いたくなる始末である。
「シックスセンス」の謎解きは、すぐに理解できたのに、
「いま、会いにゆきます」の意味が、分からん。

向日葵畑での澪とたっ君の、公私混同を匂わせるリアルなキスシーンでは、止め処なく涎が垂れたのに。
また、雨が降る森林の映像も素敵だと思ったのに。

私には、肝心のあの映画のストーリーや主題が分からんのだ。

しかし、分かったんである。
澪が短命と引き替えに、大好きなたっ君との生活を選択した「熱き想い」が、私にはきっと欠落していて、あの映画そのものが理解ができないんだろう。
…ということが一夜経過して分かった。

本でも映画でも、そのストーリーに触れるとき、私は主人公に自分を置き換える作業を無意識にしている。
しかし、私は主人公というべき澪に、全く惹かれないのである。
「いくら、たっ君好きだからといっても、あんた、29歳までしか生きられないんだよ?」
と澪について、思う。

息子のユウジ君には、辛うじて感情を共有できるんだが。
できるならユウジ君のように、今でも両親に両手を持ち上げられ、高い高いしてもらいたいし…。

そうか。
私の場合、あの作品はユウジ君の視線で観るべき映画だったのか。なるほど。納得。


エンディングテーマの「花」(オレンジレンジ)は好き。

「生まれ変わっても
 あなたに会いたい」

私にも、そう思える人がたくさんいる。
あの人も。この人も。
そんな人々のためなら、「いま、会いにゆきます」って思える。
結果的に、「他人のため」が「自分のため」に化学変化していることに気付く。

嗚呼。
なんか、あの作品の意味が分かりかけてきた!気がする…。