気持ちを引き締め、明るい学校づくりをすすめてまいります | 校長ブログ | 名古屋経済大学市邨高等学校・中学校
はじめに、6年前にお亡くなりになった高橋美桜子さんのご冥福をお祈りいたします。
ひとまず、ホッとしました。高裁の判決で、「いじめ及びその放置と自殺との間に因果関係がない」とされました。
本校を中学1年で転校した後の3年5ヶ月間の人間関係のトラブルによるストレスが原因とされました。
現校長として、判決を重く受け止め、真摯に対応して参ります。
以上は学校で受けたいじめが原因で自殺したとして遺族から訴えられていた学校法人の校長ブログからの引用です。補足しておきますと地裁では在学中のいじめと自殺との因果関係が認定されており、これが高裁で覆されたわけです。いじめを受けていたのが中学1年の時で、自殺したのは転校して3年後とのことですから直接的な因果関係を断定するのは難しい、疑わしきは罰せずとならざるを得ないところもあるでしょうか。ただし自殺した高橋美桜子氏は解離性障害などと診断されており、この障害といじめとの因果関係は高裁でも認められ、学校側に慰謝料として619万円の支払いが命じられたことが伝えられています。
それでも、被告側の校長は「ホッとしました」と。「本校を中学1年で転校した後の3年5ヶ月間の人間関係のトラブルによるストレスが原因とされました」と校長は言い切るわけですが、これでいいのでしょうかね。少なくとも教育者としてそれはどうなんだろうと思わないでもありません。高裁の判決が因果関係を認定しなかったとしても、自分の学校でいじめが放置されてきた、その結果として生徒に障害を負わせて転校を強いた、この辺りへの反省が見えない辺りに学校というものの性質がうかがえるような気がします。
いじめ研究の第一人者が断言 内藤朝雄「いじめ加害者を厳罰にせよ」(現代ビジネス)
「いじめチェックリスト」はでたらめだ。「いじめは傍観者も加害者」という言い方は、路上で暴力団に絡まれた人を身を挺して助けようとしない普通の市民に「お前も暴力団だ」というに等しい暴論だ。日本の「人権派」が主張している少年法の保護教育主義は、人間の尊厳をくつがえす反人権の考え方だ。
ちなみに内藤氏の主張は「いじめの蔓延を防ぐための唯一の手段は、聖域と化した教育現場に市民社会のルールを導入することなのだ」というものであって「厳罰にせよ」とは単なる煽り文句のようです(もっとも「気にくわない相手」の人権には無頓着なのだなと思えるところがないでも)。まぁ市民社会のルール云々は学校を支配するローカルルールよりはマシなのでしょうけれど、この引用部などはどうなのやら。ちょっと喩えが御都合主義に過ぎるのではないでしょうか。目の前で暴行を受けている人がいるのに通報もせずに見て見ぬフリをする、被害を訴える人がいるのに相手にしない、加害者と何事もなかったように普通に付き合い続ける、そういう傍観者に責任を問うのが暴論とは思えませんね。
それよりもなお重要なのは、この「傍観者」とは生徒に限らないということです。いじめを傍観しているのは生徒だけではない、むしろ学校であり、教員こそ傍観者としていじめを黙認する存在である、この黙認があるからこそ加害者サイドは心置きなくいじめをエスカレートさせることができるとも言えます。教師が止めないのだから、いじめは学校公認、後ろ暗いことではなく堂々と行えるハレの振る舞いになるわけです。「いじめを傍観している人はいじめている人と一緒」と私も小学校、中学校で教わったものですけれど、これは正しい。いじめを放置、隠蔽する学校/教員もまた加害者であるという認識を持って向き合う必要があるのではないでしょうか。
参考、いじめを放置、隠蔽する学校側の対応は日本の社会通念に照らして「普通」
参考、教師は学校を守るもの
参考、どうしようもない
この辺、何度か書いてきたことではありますが学校という組織は特定の個人――いじめの標的にされている生徒――のために全体の秩序を危険にさらすことは好みません。むしろいじめ被害者が何かを訴えてくる、あるいは警察など外部に問題を拡大させる、そうした行動をこそ学校秩序を脅かすものとして警戒しているのであり、だからこそ冒頭で引用したような校長の発言にも繋がると言えます。いじめの被害者は学校ではありません。しかし、いじめの問題が外部に持ち出されることで学校は被害を被る、そこで学校が恐れるのは何なのやら。
「いじめ防止に武道家の先生を」 谷川文科副大臣が持論(朝日新聞)
いじめ防止には、怖い武道家の先生が必要――。27日に文部科学副大臣に就いた谷川弥一衆院議員が、最初の記者会見でそんな持論を展開した。
谷川氏は「いじめたら怒られる。それを理解してもらうには怖い先生が学校にいないとダメ」と述べ、「武道家。一番いいのはボクシングだと思うが、空手、剣道、柔道、プロレスも入るかな」と格闘技を列挙。「いないなら警察OBを雇う」と続けた。
新内閣の文部科学副大臣の上記発言は方々で失笑を買ったようで、まぁ柔道の内柴正人氏辺りにでも赴任してもらってみれば良いのではないでしょうか。首相だって再チャレンジなのですから。後は元・時津風親方等々、格闘技経験者には人材が豊富です。ともあれ「いないなら警察OBを雇う」とのこと、昨今はいじめ問題がクローズアップされたこともあって実際に警察が介入することも一時的に増えてきた、内藤朝雄の「教育現場に市民社会のルールを」云々にもどこか通じるものと言えます。
学校ならではのローカルルール支配は、いじめの被害者サイドにとっては完全に絶望的な代物です。むしろ学校はいじめを黙認する存在、是認する存在であることが一般的で、このような状況に横槍を入れてくれる部外者に期待を持つ向きがあるのは当然でしょう。学校の先生に比べれば、警察の方がまだしも頼りがいがあると見えるところもあるとは思います。もっとも警察が動くようになったのはいじめ問題が大きく取り上げるようになってからのこと、発端とも言える大津市の事件では、被害者の生前に警察が何かをしてくれることはありませんでしたが。
いつか正義の味方がやってきて悪い奴をやっつけてくれると、そう期待しがちな人には「怖い先生」なり学校外の力、例えば警察などが解決手段に見えてしまうのかも知れません。もっとも学校の「怖い先生」が暴力装置として加害者サイドを抑え込んでくれたケースって、果たしてどれくらいあるのでしょうね。結局は学校の先生である以上、行動規範は変わらない、むしろいじめの加害者サイドと意気投合して背中を押している先生も多いように思います。警察もまた然り、諸々の冤罪や相次ぐ自白の強要等々、いつもではないながらも時に警察もまた自らの権威のために無垢の被害者を加害者に仕立て上げて罰しようと動くわけです。ヒーロー願望の持ち主の期待通りに「力」が「悪者」に向けて振るわれる保証などどこにもないことは理解しておくべきでしょう。
内藤朝雄は教育ムラガーみたいに言いますけれど、組織のために個人に犠牲を強いるなんてのは学校の外でも当たり前に繰り返されていること、数多存在する会社ってのは思われているよりもずっと中学校じみたところでもあります。学校の先生が「市民社会のルール」から逸脱した価値基準で行動しているとは必ずしも言えません。上でも触れたように、いじめを放置、隠蔽する学校側の対応は日本の社会通念に照らして「普通」です。学校でなくても、例えば社会人の研修先として高く評価されている自衛隊ですら被害者を死に追いやるようないじめは起こっていますし、組織的な隠蔽も普通にありました。少なくとも教育村云々の問題に矮小化されるべきものでないことだけは確かです。
あるいは内藤朝雄が否定する「人権派」よりも先にまず、「子供のやることだから」で済まされているところもあるのではないでしょうか。とりわけ昨今は、子供の迷惑行為に不満を述べたり、その改善を求めたりすれば直ちにクレーマー扱い、お前の心が狭いのだ云々と囂々たる非難を浴び、「我慢せよ」と迫られるのが当たり前です。子供による暴行や窃盗、恐喝の類も、それを止めさせるよう学校側に要求する親などは専らモンスターペアレンツ扱いされることが多いのではと思います。「(いじめで自殺した被害者の)遺族は学校を潰そうとしている」と述べた教員もいましたが……
ともあれ学校が勉強よりも集団生活の場であり、その点数に大人が一喜一憂する学力テストの対象になるような科目よりも道徳教育や体育、学校行事などに費やす時間の方がよっぽど長い、このような在り方を見直すべき時期に来ているのでは、というのが私の持論です。教育再生だの何だのと叫ぶ人もいますけれど、たぶん進学塾とかその辺を見習った方が良いのではないでしょうかね。塾でいじめが皆無とは言いませんが、より問題が少ないのはどちらなのか、より生徒に勉強させることに成功しているのはどちらなのか、果たして日本の公立学校は勉強するところとして機能しているのか、考えなければいけません。
塾での例を挙げているようですが、多分それは塾でいじめが少ないのではなくいじめをしている程の余裕が無い、または塾でのストレスが学校でのいじめに転嫁しているという見方も一部出来るのではないでしょうか。
どこの世界で「お客様」を殴ったり、「お客様」に他の「お客様」をけしかけて危害を加えたりする会社があるんですかね? 塾でのストレス云々も根拠がよく分からないのですが、むしろ学校でのストレスはどこへ行きましたか?