紋切り型の日本人論は数多あります。別にどうと言うこともない代物ばかりではありますが、この紋切り型の日本人論の中のどれを受け入れ、どれを受け入れていないかを見ることで我々の社会の意識を推し量ることは出来るでしょう。日本人論に限らず、ステレオタイプ化された○○人論そのものは取るに足らないものであっても、それを当の日本人あるいは○○人が内面化することで、それは俄に現実味を帯びてくるものです。
日本人は曖昧だと、よく言われます。同じ日本人から、ですね。本当に外国人がそう言っているのかどうか、そこは疑わしいものです。何となく日本人が外国人の口を借りて言わせている気すらします。日本人論と言っても、それは必ずしも外から日本人を評するために作られたわけではなく日本人が日本人を鋳型に嵌め込むために作ったケースもあるわけですから。
ともあれ、仮に「日本人=曖昧」説の起源が外国からの評価にあったとしても、今やその意識を日本社会が自家薬籠中のものとしていることには疑いがありません。「日本人=曖昧」という日本人論は日本社会によって大歓迎され、すっかり意識の中に染みついているようです。紋切り型の日本人論が数多ある中で、この意識は最も受け容れられているものの一つではないでしょうか? よほど日本人の気に入ったのか、日本社会でこそ繰り返し引き合いに出されている観念と言えます。
他にも日本社会でこそ繰り返し用いられる日本人論は幾らかありますが、ともあれ「日本人は曖昧である」と、当の日本人が言いたがるのはなぜかを考えてみますと、そこから浮かび上がってくるものあるのではないでしょうか。日本人は態度が曖昧だから素晴らしいと言いたいのでしょうか? 逆ですね、日本人は態度が曖昧なところが良くない、そう言いたいのでしょう。そしてその意識が定着し、飽くことなく繰り返されていることが意味するのは、我々の社会が「曖昧なのは良くないことだ!」と、絶えず自らに言い聞かせていることではないでしょうか? 曖昧さを徹底的に忌み嫌い、排除しようと願っているからこそ、曖昧さは良くないとお互いに言い聞かせ合っているのでしょう。
かように曖昧さを忌み嫌い、物事を白黒はっきり分ける、二元論的に判断することを是とする社会では、必然的に対立関係が生み出されます。「あれも、これも」そんな考え方は排除されるべきものであり、「あれか、これか」二者択一の選択が迫られるわけです。両立は有り得ず、どちらか一方を選択するしかない、どちらか一方を生かすためには、もう片方の犠牲はやむを得ない、一方が善であり一方が悪、曖昧さを許さない社会ではそう考えられる他ないのです。それは善であり悪である、と言うような曖昧さは認められず、どちらかに決定されねばならない、敵か味方か、その態度を鮮明にせねばならない……
かくして物事は対立関係で考えられ、一方を立てればもう片方が立たない、必ずトレードオフの関係にあるものとして位置づけられるばかりか、どちらかに軍配を上げるべきものとして捉えられます。そこで顕著な例を挙げるとすれば「公」と「私」の関係がその筆頭でしょうか。こと日本においては「公」と「私」は二者択一の関係―――「私」が強まれば「公」が損なわれるものとして扱われ、「公」のためには「私」の犠牲はやむを得ないものとされています。そして「公」と「私」のどちらを優先すべきか、結論を下さずにはいられないわけです。
実際のところ、二者択一の関係、トレードオフの関係にあるものは驚くほど少ないものですが、物事に白黒はっきりつけないではいられない社会では、なんでも対立関係にすり替えられてしまうのです。「公」にしたところで元々は「私」の集合体が「公」なのであって、対立するものであるばかりか「私」の強化なくして「公」の強化もあり得ないのですが、ところが不思議なことにこの社会では両者がトレードオフの関係にあるもの、どちらか一方の選択を迫られます。どうして両方でダメなのか?
ともあれ、日本では「公」と「私」は対立関係の構図で捉えられており、どちらか一方の選択、どちらか一方の犠牲が求められているわけです。つまり「公」を優先しなければならない、そのためには「私」は制限されねばならない、と。実際にはこの対立はまやかしに過ぎませんが、この社会ではそのまやかしの対立が奇妙な現実味を帯びているわけでもあります。「公」をとるか、「私」をとるか、ショー・ザ・フラッグ!
このような社会で「私」を考慮すること、「私」の立場で考えることは、それと対立する(と、されている)ものを損ねる行為として位置づけられます。すなわち「公」を損なうものであると。そして「公」を守るためには「私」を抑える必要があり、それに従わない人は「公」の敵とされるわけです。その逆は? つまり「私」を蔑ろにすること、「私」を犠牲にすることは、翻って「公」に貢献する行為であると、そう錯覚されるわけです。
そこで今度は「公」の立場で考えるとどうなるでしょうか? 「私」と「公」の対立を前提とした上で「公」にとって何がプラスになるかを考えた場合は? 言うまでもなくそれは虚構に過ぎないわけですが、「私」と「公」を天秤のような関係で考えている人にとって、一方のプラスはもう一方のマイナスであり、一方のマイナスはもう一方のプラスです。「私」のプラスが「公」のマイナスと考えるのであれば、逆はこうです。「私」のマイナスこそが「公」を良くすることだと!
だから「公」を良くしていこうと訴える人は、同時に「私」に犠牲を要求しますし、その支持者は「私」に犠牲を強いることを改革の証として賛意を表明するわけです。そうした人にとって「私」の利益を訴える主張は「公」に仇なすもの、「公」を破壊するものとして嫌悪の対象になります。だからそう、最も国民の生活を悪化させた首相が実質的に戦後最高の支持率を獲得し、国民の生活を訴える政党は決して多数派の支持を獲得できないのも致し方ないでしょうか。この「公」を重んじる社会は「私」を蔑ろにする指導者を欲しているわけですから。
この国でやたらと「公」が重視されるのは、それが軽視されているからではなく、この社会が「公」を過剰なまでに重視し、飽くなき情熱を以て「公」への奉仕を説こうとする欲望を抱えているからかも知れません。それは「曖昧なのは良くない」と自戒し続けているのと同様に、「公」を大切にしなければいけないという意識の強さを雄弁に物語ります。そしてこの「公」意識の強さが故に、「私」を蔑ろにすることへの奇妙な寛容さ、「私」を語れない、あるいは語らせない屈折があるのです。そもそも「私」と「公」の対立という前提が誤ってもいるわけですが、それに加えて道徳家であるが故に、「私」の領域を侵害する言論や指導者が強い力を持っている、滅私の世界が生まれているのではないでしょうか。