Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

普通人がなすべきこと

2009-04-23 23:38:29 | Weblog
今朝の日経,野球評論家の豊田泰光氏の「チェンジアップ」というコラムが気になった。MLB のイチローや松井秀が,そろそろ年齢を気にする年代に達しつつあることを指摘し,「プロ野球選手が衰えていく過程は才能あふれ,すべてをほしいままにしていた人が普通の人間に近づいていくことを意味する」と豊田氏は書く。氏自身は「ここというとき打てなくなったとき」そう意識したという。

優れた人材は到達したレベルが高いので,「衰え」によって失うものが非常に大きい。したがって,その苦痛は凡人をはるかにしのぐ。逆にいえば,凡人は自分の衰えに気づくのが遅いので,その分幸せかもしれない。かくいうぼくも,最近になってようやく,衰えが抜き差しならぬものであることから目を背けられなくなった。遅すぎるといわれたとしても,そのほうが幸せだったことは確かだ。

ずいぶん前に,多分著者はスキデルスキーだったと思うが,社会科学(特に経済学)の研究にオリジナルティを求めることの愚を説いた本を読んだことを思い出す。彼によれば,オリジナリティを求めていいのは(ケインズのごとき)少数の天才であって,他の多くの凡庸な研究者は,わずかなオリジナリティを求めてつまらぬ論文を書くよりは,価値ある古典の解説をすべきであるという。

大学で教えながらときどき感じるのは,真に基礎的な知識を教えることの重要性だ。教員たちが,これこそ自分の天命と信じて行なっている研究は,たとえ同業者のサークルで高く評価されたとしても,そうした真の基礎的知識になり得るものはほんのわずかでしかない。だとすれば,「普通の」大学教員はどこかで研究はほどほどにして,教育により重心を移すべきかもしれない。

大きな本屋を歩いていると,わくわくする知識がいかに世に溢れているかに驚く。学術誌の目次を眺めても,読むべき論文が途切れなく現れることに嘆息する。そこに自分の貢献を加えたいという願望と,選り抜かれた真に学ぶべき知識を後進に伝えたいという2つの願望がある。自分はどうも後者の使命を担っているのではという思いが,今日本屋を歩いているとき去来した。

だが,それならそれで,重要な文献を網羅的かつ徹底的に読み込み,整理する必要がある。それまた大変なことで,それもできないということになれば,「普通以下」ってことになるのかな。天才であることからほど遠い人間が,あるとき自分が紛れもなく普通人であると自覚し,それらしく生きようと決意したものの,結局普通人にもなれないのだとしたら,あまりに痛すぎる・・・。

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