前回、紹介した笠置寺の本尊、弥勒磨崖石仏。
笠置寺の本堂は正月堂と呼ばれる本尊弥勒磨崖石仏の礼拝堂で、かの東大寺二月堂で行われるお水取りは、ここで「渡来僧実忠」が行ったのが始まりだといわれている。
高さ、約16m幅15mの巨大な花崗岩に身の丈、五丈(15m)の弥勒像が聳えていたと言う。
現在、写真で見るように、巨大な石塊に光背のみを残し、元弘の乱の兵火によって見る影もなく焼け爛れた姿を残すのみと成っている。
1300年程前に、線彫りによって刻まれ、彩色が施された時代もあったようで、『笠置寺絵縁起』によると、弥勒磨崖仏の創建には、天智天皇の皇子(大友皇子か?)が笠置山に狩猟にこられ災難に遭い、弥勒仏の彫刻を発願されたと言われています。
物語では、「天人によって一夜にして刻まれた」とされていますが、大陸より南山城地方に移住された高麗系の狛氏族の技術がかかわっていたと考えられています。
近く、山城町には高麗寺廃寺跡や、現在でも狛(こま)の付く地名が残っていたりして、納得のいく話です。
奈良県 大野寺の弥勒磨崖仏・京都府加茂町 当尾の辻の弥勒はこの弥勒石仏を模写されたものだと言われており、京都仁和寺に残る絵画資料によってその姿を推し量るしかありません。
また、この弥勒石仏へ行くまでにもいくつもの巨石があり、それに「薬師石仏」「文殊石仏」の名があり,よく見ると何か彫られているように見えますが彫り物の跡なのか、自然にそうなった物なのかは判然としません。
この二つの巨石の前には、鎌倉時代期(室町期の説もあり)の十三重の塔(国・重文)があって薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の四方仏はすばらしい。
撮影2006.9.18