愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

寝屋川市 大念寺十三仏板碑

2012年11月21日 | 石仏:大阪

街中の小さな寺院に大小二基の十三仏板碑が並び建って居ます。

四條畷市役所より国道163号線を西へ約2km足らず、寝屋川市との境、堀溝交差点を左折、すぐ次の辻の向うに「一心山大念寺」の瀟洒な山門が見える。

三文の前の道路上が市境を分けており大念寺は寝屋川市に成っているが、道向かいの駐車場は四條畷市に入っているかも??

山門を潜って狭い境内の左手、白壁土塀を背に色石混じりの玉砂利を敷き詰めて二基の十三仏板碑と得体の知れない残欠を組み合わせた石造物が建っている。

向かって右端の十三仏板碑は高さ120cm足らず、花崗岩を舟形に整形、枠を残して舟形を彫り沈め、下部を刻銘部として広めに取り、その上部に三列四段と上部に虚空蔵菩薩を置く定形の十三仏を中肉彫りで刻みだしている。

大きな天涯を上手く舟形頂部に合わせた洒落た意匠に成っており、保存も良好ながら殆ど像容は定かではない。

下部には安土桃山時代の慶長十六年(1611)の紀年と、九行にわたって法名が刻まれています。

他方一基はこんな状態、舟形の花崗岩ですが、粗質な石材のため風化摩耗が激しく、頂部は欠損、中央部には大きなひび割れも見られます。

個々の尊像もはっきりせず最早十三個のダルマさん状態で天蓋の有無も確認出来ません。

高さ90cm、安土桃山時代の慶長十四年(1609)と右側の十三仏より2年早い造立が確認されて居ます。  

撮影2011.11.27


寝屋川市 正縁寺十三仏板碑/石仏

2012年11月20日 | 石仏:大阪

写真の様に数多くの石造物が集められこの正縁寺の境内に安置されて居ます。 

此処は前回紹介「秋玄寺」より南東へ約1.5km、多分一昔前は静かな丘陵地であっただろう?新旧建ち並ぶ住宅地の真ん中に有ります。

JR学研都市線「忍ヶ丘駅」北へ約500m、創建は不明ながら元融通念仏宗、現在は浄土宗恩院末の小さな寺院です。

境内片隅の一画に、近くの造成開発や道路拡張などで行き場を失った石造物が数多く集められ、大切に祀られて居る。

先ずは、ちょっとずんぐり横広の舟形を持つ定形の十三仏板碑。

例に違わず三列四段と中央上部に天蓋下の虚空蔵菩薩を置く。

総高84cmと小さいながら、中肉の像容もはっきりしていて安土桃山時代の天正十四年(1586)も確認出来る。

こんな処にも・・・・と思わず唸った板石に厚肉で刻まれた阿弥陀、地蔵の双体石仏。

隣町、交野市星田地域に多い、僕が勝手に名付けた「星田型石仏」に瓜二つ。

ここから星田は約3kmばかり当然この地に在ってもなんの不思議もないが、他の地域では見ることの無いローカル色の強い石仏です。

像高共に約70cm強、向かって左に来迎印阿弥陀立像、右には定形の地蔵菩薩立像、その傍らには少しオーバーハングの舟形光背を持つ地蔵石仏。

単独としては珍しい合掌印の地蔵立像です。

他に、山形頂部に庇を造り、その下部に舟形を彫り窪め阿弥陀坐像を刻んだ六字名号板碑。

ちょっと変わった先の尖った山状自然石に刻まれた地蔵立像・・・、小洒落た意匠が現在アートとしても、そのまま通用しそうです。

寄せ集めでバラバラですが、なかなか見応えの有る石仏さん達です。

撮影2012.2.12


寝屋川市 秋玄寺十三仏板碑/地蔵石仏他

2012年11月19日 | 石仏:大阪

ちょっとくびれのある舟形を持つ十三仏板碑。

前回までの四條畷市の西隣町、寝屋川市と言えども市境より1km程しか離れていない秋玄寺境内に他の小石仏と共に安置されて居る。

北河内生駒山系西側斜面沿い、正しく十三仏密集地域です。

浄土宗「一印山秋玄寺」は北河内生駒西側斜面沿いを縦断する旧国道170号線沿い、高宮公民館脇を東にすぐの高みに在って、天正十一年(1582)創建だとしている。

しかしこの境内に安置された石仏は室町時代のものが多く、この地は元なんだったのだろうか??はたまた何処から持って来たものだろうか??

高さ114Cm、枠を残した舟形を薄く彫り沈目、なかに定形十三仏を薄肉で刻み出す。

室町末期の永禄十三年(1570)の銘が確認されるも、風化摩耗が強く肉眼では判断しかねます。

十三仏後列に並べられたちょっと見慣れない地蔵石仏。

舟形状自然花崗岩正面に大きな錫杖と大きな蓮華紋頭光持つ地蔵立像。

中肉彫りですが良く見ると、どうも頭が違うような、おまけに顔まで地蔵らしくない・・・・ちょっと不思議な地蔵さん。

十三仏左手には妙な筒状の六体地蔵さん。

これはどう見ても六地蔵石幢の残欠。

これもまた室町後期のものだとか??

撮影2012.2.12


四條畷市上田原 住吉神社十三仏板碑/他

2012年11月18日 | 石仏:大阪

奈良県境と道路一本隔て接して居る大阪四條畷市上田原、住吉神社境内に有る十三仏板碑です。

住吉神社は明治の神仏分離までは、元神宮寺の住職が神官を兼務する神社であり、境内には仏教文化の臭が強く残されている。

ここを訪れた去年の11月末、正しく村の鎮守らしく、そう広くない境内は秋色に染まっていた。

本殿に向かって左、境内の片隅に、自然石碑や小石仏と並んで十三仏板碑が建っている。

十三仏板碑は高さ約1.3m、頂部が尖った自然花崗岩の表面を整え、舟形を薄く彫り沈め中に定形の十三仏を薄く刻み出している。

江戸時代初期の元和八年(1622)造立・・・・・・、略化された天蓋が光背外に薄く彫られて居るのが奇異な気もする。

神宮寺が在ったと思われる境内裏参道脇にはこんな石造物。

大きな阿弥陀と小さな地蔵の並んだ双体箱石仏。

江戸初期かな?と思われる整った地蔵石仏。

神社境内で仏教の名残を見るたび、明治維新はいったい何を産み出し、何を無くしたのかと・・・・・、 現代もよく似たような事を繰り返している。

撮影2011.11.27


四條畷市  照湧墓地一石十三仏板碑/一石六地蔵

2012年11月17日 | 石仏:大阪

今はすっかり墓地整備が終わり、なんとも殺風景な墓地の片隅に立つ十三仏板碑。

<墓地から見た景観>

奈良や山城側から見れば大阪は生駒山系を越えた西側、しかし四條畷市だけはどう言うわけか?国道163号線の清滝峠を越した東側まで越境している様にも見える。

昔は同じ田原郷だったと思われる奈良県生駒市南田原と大阪府四條畷市田原が有って面食らってしまう。

歴史的に何があったのか調べれば面白いのだろうが・・・・。

現在では大きな地続きの墓地となっている田原台霊園の一番奥、照湧墓地と呼ばれる一画が有り、この十三仏板碑が立っている。

新しく整備された近代的な墓地にはどうしても似合わないような??

三画頭の花崗岩板石に舟形を掘り沈め,十二仏の坐像を四列三段と上部中央に虚空蔵の、合わせて十三仏を刻み出して居る。

通常十三仏板碑は三列四段が殆どなので非常に、珍しいものの様です。

高さ約120Cm、右脇に室町後期の永禄二年の銘が確認されています。

田原台霊園として整備されるまではどうなていたのかは知りませんが、すっかり新興住宅が幅を利かした霊園一角に有った一石六地蔵。

一石六体地蔵は伊賀地域や大和高原域では見慣れて居ますが、この生駒山系域では珍しく、龍間の一石六体地蔵の二基だけが確認されて居ます。

この近くそれも以前はここが墓地入口だったのだろうか??はたまたこの場所に移動してきたものかちょっと不似合いな場所ですが・・・・。

高さ155Cmの舟形に整形した花崗岩、蓮台に立つ三列二段の六体地蔵は像高約40Cm、厚肉彫りで元禄九年(1696)の銘が有りまが、上段三地蔵の首のあたりで断裂、補修されている。

一石六体地蔵としては大きく、なかなか見応えの有る地蔵さんです。

撮影2012.2.21


四條畷市  正法寺十三仏板碑石仏/他

2012年11月16日 | 石仏:大阪

大きく姿の良い十三仏板碑と、肩を並べるように建つ六字名号板碑です。

四条畷市役所裏、北西へ200~300m、新興住宅が押し寄せ、そこだけ田んぼの残った一画に浄土宗「小野山正法寺」が有る

大きいのでブロック塀の外からでも二基の背が見える。

正法寺は、古く、これより東の清滝山中にあり、観海上人が桃山時代の天正年間、この地に再興したと言われています。

古い写真を見ると名号板と十三仏の並びが左右が逆になっていますが・・・・向かって右側に建つ六字名号板日碑は室町時代後期、天文五年(1536) の銘を持ち、高さ 1約160cm 幅約90Cm、大きく中央に「南無阿弥陀仏」と蓮華座上に刻み、銘文も読みやすく刻み付けている。

上部には笠が載っていたと思われる 枘(ほぞ)が残って居るのが確認できる。

左側には高さ約190Cm近くもある十三仏板碑。

背が高いせいか?少し華奢に見る全体像ですが、風化摩耗も少く、十三仏の一尊一尊が詳らかに確認できる。 

十三仏板碑は正法寺再興の観海上人が本願となり、逆修念仏講の八十一人が結束、天正十八年(1590)に造立された。

三列四段と上部中央に、天蓋下の虚空蔵菩薩を置く定形十三仏板碑。

これほど一尊々々が様になっている十三仏板碑石仏も珍しい。 

撮影2012.2.21


四條畷市 南野辻堂の十三仏

2012年11月15日 | 石仏:大阪

前回の弥勒寺近く、南野辻堂に安置されて居る十三仏板碑です。

弥勒寺脇の坂道を少し登ればそこは新旧入り混じった住宅密集地・・・、なんともこのミスマッチが嬉しいですが。

この先小さな辻を右折すると直ぐに小さなお堂と、石灯篭、小石仏の残欠などが並び立てられている。

案の定お堂には格子戸、しっかり閂まで渡されて居ますが鍵はなく何とか格子戸越は免れました。

しかし狭い堂内は真っ黒け、おまけに十三仏にも真っ赤な涎掛け・・・・いつもの様にちょっと失礼。

定形の十三仏、しかしながら信仰の証か?摩耗が相当進んで居ます。

安土桃山期、 天正二十年(1592)の銘が確認されて居ます。

撮影2012.2.21


四條畷市 弥勒寺の十三仏板碑

2012年11月14日 | 石仏:大阪

先回紹介の中野共同墓地より東へ1km程、弥勒寺境内に建つ大きな十三仏板碑です。

山裾に密集した住宅街の中、高い石垣に囲まれた浄土宗紫雲山弥勒寺が有り境内西側、鐘楼脇に建っている。

高さ約1.9m、花崗岩を背の高い舟形にに加工、正面を整形し三列四段十二仏と上段中央には虚空蔵菩薩を刻み出す。

最頂部には線彫り乍ら繊細な意匠の瓔珞付天蓋を刻み、十三仏は全て深めの中肉彫りで表わして居る。

小さい尊像ながら蓮座までもよく行き届いた彫りで十三仏板碑として良く出来ています。

室町時代後期の永禄二年(1559)の銘と逆修講の法名が多数刻まれていいて、哀しい戦国時代の世相が伝わってきます。

風化摩耗も少く保存状態は良好です。

撮影2011.11.27


四條畷市 中野共同墓地(三坪墓地)十三仏板碑二基

2012年11月13日 | 石仏:大阪

奈良生駒地域より清滝峠を下って直ぐ、四條畷中野墓地に建つ二基の十三仏板碑石仏。 

生駒山系北西端の山裾に当たる部分に大坂府四條畷市が在り、その南東300m、JR学園都市線と国道170、国道168号線に挟まれた住宅街の一角、「墓の堂古墳」の上に三坪墓地と呼ばれる中野共同墓地が有る。

墓地内通路脇に結構大きな瓦屋根の覆い屋が在り中央に六体地蔵、向かって左手には十三仏板碑と阿弥陀石仏、向かって右手にはもう一基の十三仏。

左手の一基はこれ・・・・、高さ130Cm足らず、幅約40Cm、頂部は破損していますが山形、上段三尊部で横方向に断裂、写真でも解る様に合成セメント?で接合されて居ます。

下段には八行にわたり多くの戒名と室町後期戦国時代、天文二十四年(1555)の刻銘が有ります。

上部には天蓋の下、虚空蔵菩薩、址下部には三体づつ四段の坐像を連ねて十三仏としている。

こう言う山形頂部を持つ板状十三仏は珍しい。

覆い屋の向かって右側に建つ十三仏板碑は通常型の舟形を枠取り、中に十三仏を収めている。

高さ約120cm、薫煙の為か?かなり風化が進んでるためか?像容もはっきりしません。

天蓋の下には虚空蔵菩薩坐像、下部には三列四段の十二体の坐像。

年号は有りませんが、こちらの方が古いと考えられて居る様です。

撮影2012.2.12

 

大東市 称迎寺(しょうこうじ)十三仏板碑

2012年11月12日 | 石仏:大阪

生駒山系地域に集中して見られる十三仏板碑の一つです。

今は第二阪奈道路が生駒山の下をトンネルで潜りぬけすっかり交通量の減少した府道8号線の阪奈道路、大阪大東市より山肌をジグザグに登り、前方が開け道路も広くなった辺りが称迎寺のある龍間地区。

生駒の山間に開けた龍間は「落ちてきた龍」の民話が伝わる旧い歴史を秘めた山間集落ですが、現在では開発の手が伸び、幹線道を走っている分には全く辺境感はない。

称迎寺は元、阪奈道路挟んで東側に在ったが、現在道路の西側、一番奈良寄りの集落外れに新しく再建され、移転している。

この一石十三仏板碑は幅74cm 高さ142cmの舟型石に一体約20cm足らずの坐像を十三仏形の3列四段に並べ上段に一体、頂部に天蓋を配している。

風化磨耗もひどくなく、像容も良く整っている。

戦国期の終末、江戸期始まりの「慶長十一年二月十一日」(1606)の造立・・・・

「逆修講爾十五人敬白」の文字が庶民の苦しみを感じさせます。

唯一、大東市の文化財に指定された美しい十三仏板碑石仏です。

撮影2011.2.5


大阪市平野区 敬正寺(きょうしょうじ)阿弥陀・大日石仏 

2012年07月01日 | 石仏:大阪

大阪市内南端、大和川北岸にあたる平野区瓜破の敬正寺(きょうしょうじ)境内に置かれた二体の石仏。

大和川右岸の堤防下、民家がびっしり軒を並べ、車では入り込むのも躊躇するような狭い道の奥に浄土宗敬正寺が建っている。

境内奥、鐘楼門脇に、正面を鉄柵で閉じた簡素な覆堂があり、堂に近づくと傍らに繋がれいた番犬がうるさく吠え立てる。

まあ僕は犬嫌いでもなく鎖で繋がれているのでなんてことは無いのですが・・・。

この地は奈良時代前期に創立され、後、火災により廃滅したと云われる大寺院永楽寺の跡に、江戸時代初期、敬正寺として再建された。

石仏は向かって左に阿弥陀坐像、右には胎蔵界大日如来坐像を置いている。

二体の石仏は五智如来の二尊にあたり、江戸末期頃付近から発見されたようですが、残る三体は未だ未発見のまま土中に埋もれているようです。

左手、阿弥陀坐像は上部を欠損、高さ約80cm、幅約70cm、膝上で弥陀定印を組む。

悟りを拓いた様な穏やかな顔様、柔らかな曲線で重量感の有る体躯。

磨耗が進んでいるものの表情豊かな鎌倉前期の石仏です。

片や右手に置かれた大日如来石仏。

総高約120cm、像高約1m、閣閃石黒雲母片麻岩という難しい名の自然石表面に、中肉彫りで刻み出されている。

 頭上に宝冠、結跏趺坐し、膝上で法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来ですが、石材の黒雲母が邪魔をするのか顔容は詳らかではない。

その像容から平安末期の像立と云われ、阿弥陀石仏と共に府の文化財に指定されている。 

撮影2012.6.24


大阪市天王寺区 四天王寺の石仏

2012年06月30日 | 石仏:大阪

言わずと知れた四天王寺の巨大境内地に有る地蔵堂内に祀られた石仏さん。

撮影中にも絶え間なく参拝者は訪れ、その薫香でむせ返るほど、重い程にに掛けられた真っ赤な涎掛けを剥がす事などとても出来ません。

小学校や中学生の頃にも習う「聖徳太子」が創建した我が国最古の寺院ですが、度重なる戦火や天災に見舞われ、境内地の殆どはつい最近建築物となっている。

所謂四天王寺式の中心伽藍も昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失、昭和38年(1963)再建された鉄筋コンクリート製でイマイチ感は拭えない。

そんな中、境内西入り口に建つ石鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294)の造立、傍らには「大日本佛法最初四天王寺」の石柱が誇らしげに立つ。

この石鳥居は重要文化財に指定され、扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と有り、此処が極楽の入口である事を示し、往古これより外は大阪湾の波が打ち寄せていたとか・・・。

この石鳥居脇に建つ四天王寺学園の校舎を挟んで中の門参道脇には目的の地蔵堂。

明治時代頃より境内や近辺から集められた石仏数十体を合祀、地蔵堂と呼び慣わしている。

絵図では右端下に有る地蔵堂内に今回目的の二体の石仏が安置されている。

向かって左側には重量感の有る阿弥陀坐像石仏、右手にはしたり顔で笑顔の地蔵立像。

何処から来たものなのか?何故か勝軍地蔵の名で呼ばれる阿弥陀石仏は、二重円光背を背負う総高130cm、像高91cm、端正な尊顔、頭上の肉髻(にくけい)が大きく盛りあがっている。

一寸失礼、お許しを・・・涎掛けを首まで巻き上げると・・・、堂々とした体躯で結跏趺坐、膝上で定印を結び、厚肉彫りで刻み出された阿弥陀坐像です。

しかし尊顔は目鼻立ちも覚束無い程ですが、その像容から鎌倉時代中期の造立だと考えられています。

片や右手に居られる地蔵石仏は元、近くの安居神脇に在った逢坂清水と呼ばれる井戸と共に、この地に移されたその名も「融通地蔵尊」。

総高約170cm幅75cm、砂岩の自然石を舟形上状に整え、浅く彫り出した円頭光を持つ、右手錫杖・左手宝珠の定型地蔵立像です。

厚肉彫りで深く刻み出した像高は135cm、蓮台は欠損したのか真新しく後補されそぐわない。

鎌倉時代後期 、正和六年(1317) の銘が有り府の文化財にしてされている。

名の通り、何事にも融通をつけて呉れると言うこの地蔵さん、参拝の絶える事無く、涎掛けも半端ではなく捲り上げる事すら出来なかった。

鎌倉期の石仏にしては磨耗風化が少なく、口を歪めての笑顔が印象的な地蔵さん。

撮影2012.6.23


四条畷市 清滝峠石仏群

2012年06月23日 | 石仏:大阪

峠道に突き出した大岩と大岩の隙間を石龕に見立て「役行者」を安置、傍の岩には小さな磨崖の地蔵も刻まれています。

清滝街道と呼ばれる旧国道163号線、現在はその下を新国道がトンネルで一気に越えるが、旧道は峠の逢坂集落を巻きながらうねうね登る。

新道に取って代わられすっかり交通量の少なくなった旧国道筋の逢坂集落は喧騒から逃れて静かな佇まいを取り戻している。

大岩は集落の外れ、改修成ってすっかりコンクリート壁に囲まれるようにして竜王川を挟んだ国道脇の小山裾に突き出している。

自然石龕の中央には切石を基壇に紡錘状自然石に舟形を彫り沈め、岩座に腰を掛ける役行者像を中肉彫りで刻み出している。

集落の信仰の中心でも有るかの様に周りには、この小山の上に有ったという墓地から小石仏も集められ、傍らに安置されている

小さな役行者像ですが、やっぱりこの地が生駒文化圏只中であることを充分認識させてくれる石仏です。

像高約50cm足らず、江戸期造立のものでしょうか??

傍らに突き出した岩には磨崖の定型地蔵石仏、強い雨に打たれたのか?下半身が泥はねだらけ。

山形岩の正面に高さ50cm程の舟形を彫り、中に略式化、形式化の進んだ像高40cmばかりの地蔵立像を中肉彫りで刻みだす。

大きな藤蔓が絡みつく集落の祭祀場と言う感じの場所です。

撮影2011.12.7


交野市星田  共同墓地の石仏

2012年06月22日 | 石仏:大阪

旧、星田邑共同墓地の石仏さんたち。

墓地はずっと昔から変わる事無く同じ場所に有るのですが・・・、すっかり周りが変わってしまって、今では大きい遊興施設と工場裏に隠れて

全く余所者には分かり様も有りません。

新関西製鉄裏の府道20号線脇、墓地道入り口につながる町工場のフェンス前に佇んでいる地蔵さん。

フェンスの向こうでは僕の知らない言葉で談笑する従業員・・・・、勿論僕が写真を撮っていても全く我関せず・・・・。

地元では「新仏、道しるべ地蔵」と呼ばれていて、昔星田からの葬列が通る辻に新仏の道しるべとして立っていたのだろう・・・。

現在その地は工場となりこの地に移されたという。

舟形光背を持つ総高約90cm、光背よりせり出した蓮台上に立ち、像高約55cmの定形地蔵立像。

痩身で頭でっかち、単純化された体躯に風化磨耗が加わり殆どその尊顔も分からないほど。

しかし江戸期までは下らず室町末期から安土桃山期の造立。

墓地への進入路、やっぱり三面側溝、ガードレールを設えられた小川の前に立つお迎え地蔵とその一団・・。

一番手前に立つのがこの墓地のお迎え地蔵、自然石を舟形状に整形、舟形光背を深く掘り沈めた中に定型の地蔵立像を中肉彫りで刻みだす。

総高1m強、像高は約70cm足らず、室町後期風の単弁蓮坐の上に立つ。

風化磨耗が激しく殆どツンツルテンながら、やっぱり近世仏にはない匂いをを醸し出して居る。

造立は室町後期。

地元では、この地蔵に花や香を上げると迎えが早く来ると言われ、あえてお参りはしなかったと言う。

脇にはこんな阿弥陀さん。

ユニークな顔で結跏趺坐、弥陀定印を組むが略式化、形式化の進んだ江戸期のものでしょうか??

足がまるで蛇のように見える稚拙さが何処となくほっこりさせてくれます。

他の小石仏と同じく昭和50年代に河川改修で掘りだされ、ここに安置されているようです。

墓地入り口には、近代的な建物を背に一列に並んだ六体地蔵と板碑形石仏。

頂部を山形にして二本の溝を刻み、その下方に舟形を掘り沈め、中に阿弥陀坐像を刻み出している。

板碑の高さ約110cm、幅約25cm。

弥陀定印を持つ小さな阿弥陀如来坐像はその像高約20cm足らず、風化磨耗も進んでいるが室町後期の造立。

星田型石仏とは一寸違った、庶民の一端を知る石仏さんたち。

撮影2012.6.13


交野市星田 六呂の石仏

2012年06月21日 | 石仏:大阪

平板状の切石に向かって右には阿弥陀、左には地蔵を刻みだした星田型双石仏です。 

JR星田駅のすぐ傍、自転車置き場前の新興住宅脇を流れる、コンクリートで固められた側溝内に立つ石仏さん。

一昔前までは田圃脇を長閑に流れる小川の土提に立っていたのだろうが・・・・、それも今は昔、何の因果か?こんな民家の裏に挟まれた溝川に、粗末なコンクリートで固められています。

お詣りする人など誰一人居ないのか・・、全く人の来た気配もありません。

この辺りは一昔前までは六路の名で呼ばれ、東高野街道の辻場で、星田邑の入り口にも当たる処だったようです。

石仏は高さ約85cm、幅約55cm、方形板石の表面に、蓮台に立つ阿弥陀立像と地蔵立像を並べた双仏石で像高共に約47cm。

右手来迎印の阿弥陀と、左手定型地蔵は共に円頭光を持ち、豊かな表情で微笑んでいます。

体躯の衣文や蓮華座の様式からも造立年代は室町後期と見られる。

この石仏は昭和50年代、この宅地造成で掘り起こされ、ここに置かれているようです。

小川の洪水で埋もれてしまうまでは、歯痛地蔵として信仰を集めていたようですが、今では誰一人訪ねず、それが証拠に赤い涎掛けは外さなくても、元から有りません。

撮影2012.6.17