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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

交野市星田 妙見山南墓地石仏

2012年06月20日 | 石仏:大阪

現在義晴地蔵寺の名で延命地蔵として信仰されている、小松神社(星田妙見宮)裏参道入口に集められた石仏さん達。

星田の旧在所からまっすぐ南東へ伸びる道路を妙見台住宅の入り口、左側妙見山南斜面に結構大きな覆い堂が建てられ鎌倉期から室町期の中世小石仏が安置されている。

義晴地蔵寺と言う名は此処に安置されている第12代将軍足利義晴の五輪塔により名付けられたようです。

この地は往時隆盛を極めた小松寺の寺僧墓であった土地だと言われ、周辺から掘り出された石仏・石塔など二百基以上が集められています。。

前説はこのくらいにして、雛壇に立並ぶ二百体もの小石仏の中でも一際目を惹くのが中段真ん中辺りの地蔵さんと右端に見える平石の阿弥陀さん。

大きく目立つのがこの石仏さん、前にはこけしや縫いぐるみなどもお伴で微笑ましいのですが、一寸首をかしげてしまいます。

石仏は総高約1m足らず像高約70cmの星田型阿弥陀立像ですが、一寸首を傾げたように見え、鼻と額の上は少し潰れています。

切れ長の目を持つ凛々しい若者風の尊顔、来迎印を結ぶ。

衣文は少し単純化され高く深い蓮台ながらこちらも少し単純化が進み出している。

おでこが広く若者風の阿弥陀石仏は、その像容から慈光寺の「鍋賀地蔵」までは遡れない気もするが?資料では同じく、南北朝~室町初期の造立だろう。

中段真ん中辺りに立つ、おおきな赤い涎掛けの地蔵さん・・・舟形光背の上部が複雑骨折、断裂していて不整形な光背に成ってます。

赤い涎掛けを取ると正面からは落ち着いたこんな感じ・・・・。

光背より大きくせり出した蓮台に立つ、一寸理知的なワンパク小僧の様にも見える地蔵さん。

凝灰岩勢で残存総高約60cm足らず、半分コンクリート基台に埋め込まれた蓮台に立つ厚肉彫りの像高ほぼ42cm。

左手は胸元で宝珠抱き、右手は下に垂らし下与願印結ぶ、所謂矢田寺型の古式地蔵立像。

きめが粗く軟質な凝灰岩のためか、それなりに風化が進んでいるが目鼻立ちもしっかりしていて保存状態はまずまず。

像容からは南北朝~室町初期の造立だと考えられる。

夥しい小石仏の雛壇にこんな古式地蔵が隠れてるとは思いもよらなかった。 

撮影2011.4.17:2012.6.13


交野市星田 光明寺真言墓阿弥陀石仏

2012年06月19日 | 石仏:大阪

星田型石仏に良く似た形態は持つものの、少し趣の違う石仏が星田地域の墓地に有る。

星田妙見口交差点のすぐ南東側、新興住宅の谷間に埋もれる様にして真言墓と呼ばれる光明寺の檀徒墓が有り、墓地入り口に近い小さな木陰に一際目を引く石仏が立っている。

大きな切石を組んだ供台を前にして立つ凛々しい顔つきの阿弥陀立像は、星田型石仏に良く似て平板石の表面に刻まれている。

石材の総高約110cm、像高約85cm、厚肉彫り細身で背面には線彫りの二重光背を持つというが殆ど見えません。

左手は下げ右手は肩先で来迎印を結ぶ、蓮華座は厚肉で彫り出すが、風化が激しく詳らかではない。

厚肉出彫り出した尊像は具象的で細部まで良く表現され、衣文の流れも自然で優雅です。

尊顔は切れ長の目が凛々しく、造立年代として鎌倉後期~南北朝期が当てられる。

新興団地の谷間の荒れ墓地に、何語る事無く佇んでいます。

撮影2012.2.21


交野市星田 小松寺(しょうしょうじ)の阿弥陀石仏

2012年06月18日 | 石仏:大阪

星田型石仏の特徴そのまま・・・、と言うより「慈光寺」に有り、「鍋賀地蔵」と呼ばれる阿弥陀石仏に瓜二つ。

星田妙見口交差点より南へ1km足らず、妙見山斜面の新興住宅に囲まれた中に在る。

境内裏には星の岡霊園と称する墓地が有り、管理事務所脇の無縁塔の奥にこの阿弥陀石仏が安置されている。

小松寺は平安~鎌倉期に隆盛を極め、元禄16年(1703)に廃寺になった、星田山中にあった「小松寺」の字を継承したと伝えられ、その翌年の宝永元年(1704)に創建されたといわれています。

この阿弥陀石仏は総高約110cm、幅約45cmの板石を背負い像高約90cm、来迎印を持つ。

厚肉に刻まれた頭部には薄肉彫りの円頭光が有り、前の墓石がくっつき過ぎて詳細は確認出来ませんが・・・・二重蓮座になっている様です。

造立年代はやっぱり「鍋賀地蔵」に等しく南北朝~室町初期だとされ、この寺の創建よりずっと古く、いずれ何処からか持って来たに違いない。

素直に考えれば寺名を踏襲した廃小松寺の遺仏ではないだろうか???

この独得な形態と像容を持つ石仏が特定されたこの狭い地域、星田でしか見られないのは特筆に値する。

とにかくこの地は僕にとっての玉手箱・・・・・興味は尽きない。

撮影2012.2.21


交野市星田(ほしだ) 星田寺(しょうでんじ)石仏群

2012年06月17日 | 石仏:大阪

地名は星田と書いて「ほしだ」と読むが、寺名は星田寺と書いて「しょうでんじ」と読ませる・・・・。

星田の旧在所、古い町並みの中心辺り、星田神社と星田寺が並び建って居る。

多分昔は星田神社と同一境内の神仏混淆の神宮寺だったのだろう・・・

そんな星田寺に昭和50年代、明治の廃仏稀釈で隠し埋められていた石仏が境内地中から堀り起され、ここに安置されている。

星田型とでも呼ぼうか・・・、この地域独特の板状平石を背にした石仏が何体もある。

境内庫裏奥に新しく設えられた寺僧墓の背後に基壇を設け、行儀良く二列に並べ置かれている。

近く、薬師寺慈光寺で見られる独特な平石に刻まれた石仏さんたちと、ここ星田寺の石仏もそれを彷彿とさせる様に同じ形式を持ち合わせている。

後列、向かって右端に置かれているのが此処では最大の二尊石仏、その左横にも同じ形態の阿弥陀石仏。

二尊石仏は高さ約1m、幅約65cm、厚さ約10cmの板状花崗岩の正面に、蓮台に立つ像高共に約75cm、二尊の如来立像を厚肉彫りで刻み出している。

うち向かって左側の一尊は廃仏稀釈で顔を削ぎ取られたのか??痛々しいが・・・・、共に同じ来迎印を結んでいる事から双体阿弥陀石仏だと考えられています。

前が詰まって、写真では分かりませんが体躯の特徴や蓮台の様子などから室町後期の造立。

傍らには同じく星田型の阿弥陀石仏、殆ど隣の二尊石仏と瓜二つ、因みに像高は約65cmと少し小さい。

顔容も星田型石仏の特徴で有るキツネ顔・・・、印相はやっぱり来迎印を結んでいる。

左端にも同じく星田型の如来石仏が、下半身は亡くしたのか??上半身だけで立って居る。

円頭光を背負い大きさ形態ともに慈光寺の「鍋賀地蔵」に瓜二つ・・・・・因みに造立は南北朝期~室町初期だと考えられている。

後段中央に置かれた阿弥陀石仏、星田型の平石ながら舟形光背を彫り沈めた中に細身の阿弥陀立像を中肉彫りで刻み出す。

総高約65cm、像高約40cm、頭部や体躯に僅かながら彩色痕が残っていて珍しい。

室町後期の造立か・・・・・。

この石仏たちを見ると、この北河内の村々にも廃仏稀釈の波は確実に押し寄せたのだと確認できて痛々しい。

撮影2012.6.13


交野市 森墓地の三尊石仏・他 

2012年06月16日 | 石仏:大阪

前回紹介の西念寺から北方向へ約1km、交野山の西面山裾に須弥寺(しゅみじ)が在り、その奥、森共同墓地に珍しい石仏や笠塔婆が有る。

須弥寺山門をやり過ごし大きい池の淵を上って行くと森墓地の入り口、その先、石積み基壇を設けて六体地蔵と六字名号板碑・・・、向かって左端には写真のような三尊石仏。

同じ交野市内の星田地域でよく見かける石仏の独得な形態を踏襲したかの様な・・・・、平石状花崗岩に如来二尊と地蔵を並べて厚肉彫りにしている。

高さ80cm、幅86cmのほぼ正方形の板石を背に、向かって右から合掌地蔵菩薩、中央と左は同じ印相を持つ如来立像、三体共に横長の同一蓮台の上に立ち、其々像高60cm。

二体の如来像は両尊共に阿弥陀だろうか??、三体共に笑っているように見える・・・、特に向かって右端の石仏などは顔を歪めてまで大笑いしているような・・・、

このページでも紹介した南山城の一石六阿弥陀石仏を彷彿とさせるようで興味森々、その像容から、室町時代後期の作だとされています。

この墓地で、も一つ目立つのがこれ・・本来の笠を亡くして、五輪塔の火輪から上部をそれに変えている。

それにしても妙なのは、どの面を見ても同じ種子、同じ石仏・・・、種子「ウーン」は、金剛界五仏の一尊で阿しゅく如来(あしゅくにょらい)を表す。

笠部の種子と軸部の種子とは全く別だと言う事は理解できるが軸部の四面が同一なのはどうも解せない。

因みに交野市の石造文化財の資料に依ると、六字名号角柱を利用して後世その上から阿しゅく如来を追刻、笠塔婆に仕立てたようです。

しかし世の中には妙なものが存在するもんです。

これは多分、江戸中期以降の造立。

撮影2012.2.21


交野市私市(きさいち) 西念寺墾田(ごんでん)地蔵

2012年06月15日 | 石仏:大阪

我が家からは西方に車で10分も走ればそこはもう大阪府、そんな京都や奈良と県府境を接する交野市は独得なローカル色を持つ野仏の多い土地として知る人ぞ知る。

行政の民俗歴史資料も豊富で石仏ファンには嬉しいところです。

JR学研都市線河内磐船、京阪交野線河内森駅のいずれからも歩いてすぐ近くの田圃の中の旧在所の中に浄土真宗西念寺という寺が在る、

山門を潜って左脇、境内に覆屋を設え墾田(ごんでん)地蔵と呼ばれる地蔵石仏が、八体の阿弥陀小石仏と共に安置されて居る。

往時、この地蔵は西念寺の北側に有る墾田筋に立って居たもので「墾田地蔵」の名で呼び親しまれている。

砲弾型とでも呼べそうな細い舟形に整形した荒目の花崗岩に蓮台共々、細身の地蔵立像を中肉彫りで刻み出している。

地蔵石仏は、総高約120cm、像高約80cmの定形中型、足許の蓮台が写真のように飛び出していて珍しい。

残念ながら石質が粗く脆いらしく、風化磨耗が激しく、詳細までは解らなが、全体の像容から室町中期の造立だとされている。

西念寺の山門前、民家の脇ににも小さな堂が在り、小石仏が祀られている。

下部は供台が邪魔をして判然としませんが、幅広の舟形光背を持つ定印阿弥陀如来坐像、形式化した室町後期の造立。

総高約50cm、像高約30cm、糸のような細い目で微笑んでいる。

撮影2011.4.21


枚方市尊延寺(そえんじ) 来雲寺十三仏板碑

2012年06月04日 | 石仏:大阪

生駒山系の最北端、京都奈良の府県境に接する大阪府枚方市尊延寺にも生駒文化圏の色濃い十三仏板碑が残されている。

枚方市中心部からは約10km近くも離れた山中にあって、開発が進んだとは言えまだまだ里山景観の残る土地柄です。

国道307号線が集落を突きぬけ大阪、山城、東近江へと至近距離の裏ルートで結んでいる。

そんな尊延寺旧在所の奥まったところ、懐かしい匂いのする在所道に面して、この来雲寺と鎮守厳島神社が並立している。

正面石段を登り境内に入ると左手鐘楼脇に数体の石造物が在り、中央には二基の十三仏板碑。

これだけでもどこか絵になる景観です。

向かって左側、少し大きいほうは高さ約85cm、中央上部に天蓋を設けその下には虚空蔵菩薩、下部は四段三列の定型

慶長十六年二月十五日の紀銘が在り安土桃山末期~江戸初期にかけての混乱期の造立。

片方向かって右手の十三仏は永禄元年(1558)と、先立つ事約50年

慶長のものよりは少し小振りで像容も幾分単純、頂部の天蓋も有りません。

造立年代の50年間の差はこんなものなのでしょうか??、それともこの差は石工の差だけなのでしょうか・・・

どちらがいいかと訊ねられても、それはそれで口ごもりそう・・・・・・。

撮影2011.6.15


東大阪市 池島地蔵石仏

2012年01月28日 | 石仏:大阪

本当どうにもなりません、立派な地蔵堂の奥にもう一つ祠が在りその奥にこの地蔵石仏が祀られていました。 

此処は東大阪市、その昔は田圃に囲まれた農村だったのでしょうが??古い集落と新興住宅が混在した住宅密集地になっています。

そんな池島浄慶寺門前に立派な地蔵堂があります。

しかし大阪の多くの地蔵さんと同じく、正面の格子扉の間からレンズを差し込、ストロボをたき何とかしました。

花が正面でなく良かったけれど・・・しかし供台や、まだその手前の柵なども邪魔をしてどうにも成りません。

地蔵石仏は方形板状凝灰岩に方形の枠取りの中、像高約50cmの蓮華座上に立つ頭でっかちの定型地蔵。

槍のように長い錫杖を持ち背後に十三仏を月輪内種子で刻み出して居ます。

天文15年(1546)の記銘があり室町中後期の造立、やっぱりタコ入道のような大きな頭が目立つ地蔵さんです。

撮影2011.2.5


藤井寺市 舟橋地蔵

2012年01月27日 | 石仏:大阪

大阪市内や河内では石仏は悉く祠や地蔵堂に祀られ、殆ど厳重な鍵を降ろされ手出し無用といった按配、どうにも成らないので殆ど訪ねないことにしている。

古代王陵墓の集中する大和川流域、南河内方面から流れる石川が合流する南西岸に 一筋ふるい軒並みを残す船橋町が在る。

そんな町並みの中程、大山咋神社と養源寺の並ぶ表に地蔵堂があり、舟橋地蔵が丁寧に祀られている。

金襴の御簾だけは何とか跳ね上げましたが、この可愛い涎掛けは後のことを考えると外せなくこんな姿です。

火災にでも遭ったのかと思うほど風化剥離が進み、目鼻立ちも覚束無い状態です・・・・

舟形光背を背負う像高110cmの厚肉彫り、当時この地が南朝支配の土地だったことが窺われる、興国五年(1344)と言う珍しい年号を刻む通常型の地蔵石仏です。

この地も南北朝争いの戦場となったようです・・・・・。

そんな斜め向かいにはこの地の旧家で生まれ育ち、書道で名を残した松永白洲記念館が有って数々の作品を見せて頂いた。

撮影2010.1.10


枚方市 尊延寺(そえんじ)阿弥陀三尊磨崖石仏

2011年06月29日 | 石仏:大阪

最近、石仏を訪ね歩いていて、非常にショックなことが有りました。

40年ほど前の情報を頼りに探していた石仏が20年ばかし前に盗難に逢ってしまい「多分海外にでも売り飛ばされてしまった」・・・と言う事実に出くわしました。

僕達石仏ファンの紹介する石仏がそういう心無い人たちの一助を担っているとしたら本末顛倒・・・・、僕のページでも盗難や迷惑のかかりそうな文化遺産の紹介には十二分に気を使い、場所の特定はしないようにします。

この石仏も民家庭の一部に在って迷惑がかかりそうなので場所が特定できるようなことは伏せておきます。

大阪から京都南部の山城を抜け東近江へと至る大阪京都の府境近くに尊延寺集落が新旧混在して建ち並んでいる。

そんな民家の片隅に廃遍照寺の遺仏だと言われる阿弥陀如来三尊磨崖石仏がある。

斜面から突き出した高さ約2m足らずの岩に約1mの舟形光背を彫り沈め、中尊に厚肉彫りで像高約80cmの来迎印阿弥陀如来立像・・・

脇侍にはそれぞれ約40cmの勢至、観音の両菩薩を刻み出す。

三仏共にふっくらと表情豊かな顔容だが鎌倉期の様な力強さには欠け・・

南北朝期の造立だと考えられています。

保存状態は悪くなく、余り厳重に管理されるのでもなく往時の面影も残り、家人のセンスの良さが偲ばれる。

快く拝観させていただき感謝です。

撮影2011.6.15


羽曳野市 杜本(もりもと)神社の隼人石(はやといし)

2011年06月10日 | 石仏:大阪

大阪南河内の王陵墓が 点在する羽曳野(はびきの)市の南端に近い駒ケ谷集落の杜本神社には石像、隼人石がある。

拝殿奥の本殿脇に立つ此の隼人石に出逢うためには参道登り口傍にある社家にお願いして鍵を開けてもらわなくてはならないがそれだけの価値は有る。

本殿脇左右に一対の獣面人身像が建って、ちょっといつも見かける神社の狛犬とは趣を異にしています。

向かって右側の石像がこれ・・・高さ1m強程の石板状自然石に高さ約90cm程のご覧の様な像を余り見慣れない意匠で線彫にしている。

その顔容が犬に似てると言われていますが??、僕にはねずみにも見えたり。

一方左手にはこんな像・・・・

石の大きさや像の大きさは殆変わり有りませんが・・・、どうも妙なことに本殿の両脇にあってこちらは非ぬ方を向いてます。

人身は確かに左右対称中心向きなのですが獣面はよそ向き・・・。

写真が良くなく分かりづらいですが、顔容も全く違ってこちらはどう見ても犬とは見えず兎の様にも見えます。

どうも僕にはこの石像が本来在った場処から、此の二体だけがここに移動されたものだと思われてなりません。

奈良市の聖武天皇(しょうむてんのう)の皇太子の那富山墓(なほやまのはか)「子(ね)」の石像や、新羅王朝陵墓の掛陵(ケヌン)の台石に刻まれた十二支神との関連性も取りざたされている様です。

この地は古代王陵の地のすぐ近く・・・・。

那富山墓の隼人石に興味の有る方はこちらより・・・・・・・・・。

撮影2008.10.26


柏原市 大門所地蔵菩薩石棺仏

2011年06月09日 | 石仏:大阪

前回紹介の谷尻地蔵より道なりに少し登った道角のお堂の中に大切に祀られています。

小さな在所の地蔵堂にしては立派過ぎるほど大きなお堂で、多くの人たちが集まってお守りしていたのでしょう・・・

近くの古墳より出たと言う石棺蓋石の内側に枠縁を残し隅取りして彫窪め、円形頭光を持つ像高1mばかりの地蔵菩薩立像を厚く刻み出している。

石棺は大きな縄掛け突起を持つ家形石棺で播磨産出の竜山石と呼ばれる凝灰岩で総高約2m。

地蔵菩薩は大きな錫杖を持つ定形の地蔵で古式な像容も良く、やっぱりお堂の中に有って保存状態も悪くない。

像の下半両側に「正和二癸牛年十二月十□□末□之、一結衆」の刻銘があり、鎌倉時代後期1313年地域の人たちにより造顕されたようです。

大和川を見下ろす峠の入り口に有る青谷集落は往時古道脇にあって信仰深い地域であったのだろう・・・・・。

撮影2008.10.26


柏原市 谷尻地蔵石仏

2011年06月08日 | 石仏:大阪

国道25号線を八尾市方面から奈良方面に向かって大和川北岸から南岸に渡る国豊橋で、橋を渡らず直進すると信貴山方面に抜ける府道183号線と成る。

青谷口辺りで大和川岸より離れて急坂の登りとなり、初めて出遭う急カーブの左手に簡素ながら大き目の地蔵堂が目につく。

この堂内に所謂谷尻地蔵尊と呼ばれる地蔵石仏が祀られている。

地蔵菩薩立像は古道脇に露出した巨石に半肉彫で刻み出された磨崖石仏、地蔵堂は覆屋に成っていて巨石ごとすっぽり覆っている。

正面には格子戸で閉ざされているが鍵は無く誰でも内部に入り、自由に参拝できるようになっている。

舟形光背に荒々しいノミ痕を残し彫窪め、蓮台は岩面に線彫り、像高108cmの定形地蔵立像を刻むがローカル色豊かな像容。

「元亀三年壬申十一月吉日□阿」の銘が刻まれ、室町末期の1572年の造立。

古くより覆堂が掛けられていたのか風化磨耗も少なく保存状態は良いがその分、野の仏の景観は望むべくも無い。

この道は雁多尾畑(かりんどばた)集落を越え、信貴山に至る参詣道だったのだろうか??

河内に在って珍しい磨崖石仏です。

撮影2008.10.26


茨木市上音羽 多尊磨崖石仏

2011年05月16日 | 石仏:大阪

天正、群雄割拠の戦国動乱時代この攝津山中の農民達は何を願って石に仏を刻んだのだろう。

その苦しみや悲しみが余りに稚拙なまるで子供の絵を思わすようなこの石仏たちから真っ直ぐに胸に突き刺さる思いがする。

名神高速茨木IC付近から豊能町役場付近へと北摂山中を縫って走る府道110号でジグザグの山中道路をひた走ること約30分、豊能町との境界すぐ近くに上音羽の集落がある。

石仏へは上手の山肌を縫うように走る県道から進入路を下って集落内を行く旧道を更に豊能町方面に向かうと道路脇に木立が在り、その株元にそれとわかる大岩や説明板も見える

ここまで行くともう形式化を通り越して図形化・・・・、それがまた野の仏の素朴さ・・・・。  

大和高原域でも多く見かける多尊磨崖石仏・・・・・、こちら北摂、豊能能勢地域でもよく目に出来そのほのぼの感がなんとも心を和ませてくれる。

中尊だと思われる上段二体のうち向かって左側、放射光背を背負う阿弥陀さん?、右手には合掌地蔵??、その右上には月輪内に地蔵の種字の「カ」を刻んでいる

なんとも微笑ましい阿弥陀さん?刻銘は天正二年と読めるそうな・・・・。

大きい中尊の二体は高さ約30cm,その他30体程ある地蔵さんは約20cm、まるでこけしを並べたように立ち並んでいます。

上段の地蔵の下には、記名があって宗承と読める・・・・、これは逆修供養者の名前なのだろう。

こんな山中の寒村に在っても戦国戦禍の影響が色濃く、農民たちの暮らしもさぞかし大変で、逆修供養をしなければならないほど追いつめられていたのかと思うと心が傷みます。

今は一見長閑に見える山里にも辛い歴史は秘められている様です。

撮影2009.7.11


交野市星田 薬師寺の石仏

2011年05月06日 | 石仏:大阪

大阪北河内、交野市星田の古い町並みの中に有る無住の鄙びたお寺。

普段誰もいないので重文クラスの仏像が有るからとしっかり施錠されていて立ち入り禁止・・、以前に訪ねてとぼとぼ帰って来たことも有る。

4月21、 この日は年に2回の御祀りが有るとかでお堂は開放、石仏さんも自由に撮影可能とのこと、いそいそ出かけて撮影させてもらった。

町中に有ってこの荒れ寺風情はなんとも・・・・

壊れかけた築地塀をバックに(いくら鍵が掛かっていても乗りこえられそうなほど)・・・・石仏と石塔がずらっと一列横体。

やっぱり中央に居並ぶ二体ががどうしても目につきます。

どこかで見たことの有る特徴的な阿弥陀さん。 

元、この近くに在った小松廃寺の遺仏を祀って創られたという薬師寺、その石仏も当然小松廃寺のものだろう??

すぐ近くに有る慈光寺の2体の阿弥陀石仏に瓜二つ・・・、この特徴的なつくりは印象的です。 

かといって隣の地蔵石仏もかなり特徴的でその顔容は、きわめて慈悲深い柔和な微笑み湛えている。

しかも孤の地では多い板状石材に二重の線彫り円後背をもち、錫杖を持たない古式な地蔵石仏です。

他にもこんな石仏さんも・・・。

撮影2011.4.21