goo blog サービス終了のお知らせ 

愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

茨木市 忍頂寺阿弥陀二尊笠石仏

2013年03月25日 | 石仏:大阪

豊能町切畑方面からの帰り道・・・・・・、豊能町境界に近い茨木市の山中集落、「忍頂寺」の街道沿い民家の前に佇んでいた石仏さんです。

この石仏も石友さんの計らいでお目に掛かれたもの、この日逢うまでは全く未知の石仏でした。

いくらNET検索を掛けようが石友さん以外のページはヒットしません。

なんでも無い街道筋の民家脇、切石の低い擁壁上に小石仏と一緒に祀られて居ます。

豊能町では最古の年号を持つと言われる大円釈迦堂の阿弥陀三尊笠塔婆に良く似た様式の石仏です。

高さ約2mも有ろうかと言う縦長棒状の自然石の中程を彫り窪め、定印を組み二重蓮華座?に座する阿弥陀坐像を中肉彫りで刻み出している。

蓮華座を含めても像高50cmにも満たないような小像ながら、笠石も失われず完品です。

包容力の有る落ち着いた表情・・・・・

銘の確認などは出来ていませんが・・・・、少なくとも江戸時代の近世仏では無く中世仏の臭がします。

地方色豊かな逆修塔と言ったところでしょうか???。

撮影2011.11.3


豊能町 大円小松阿弥陀三尊磨崖仏

2013年03月24日 | 石仏:大阪

前回紹介の大円下所阿弥陀磨崖と良く似た中尊を持つ阿弥陀三尊磨崖石仏。

切畑区内を縫うように走る府道109号線沿い、大円集落センターに隣接する観音堂と県道を挟んで対峙する斜面上に在る。

山裾の大きい民家の脇を失礼して斜面に登り獣道を掻き分ける様に府道側の尾根に出ると・・・・、写真のような磨崖石仏に出逢う事が出来る。

とても案内無しでは到底見つけられないような石仏さんです。

殆ど誰も訪れる事は無いのだろうか?降り積もった枯葉がふかふか・・・・ガサゴソ枯葉を踏みしめる音がするだけ。

もはや供花の痕跡すら見当たりません。

地表に頭を出した高さ高さ75cm、幅3mばかりの扁平な卵型自然石に、見た目もほのぼの小さな阿弥陀三尊が刻まれて居ます。

中尊阿弥陀は舟形光背の中、二重蓮台に坐す定印の阿弥陀如来、その像容は大円下所阿弥陀磨崖に瓜二つ、同一作者の同時期造立だと思われます。

脇侍の観音、勢至菩薩は中尊阿弥陀に寄り添うように内側向きに刻まれ、地元では「小松の横向き地蔵」と呼ばれているようです。

中肉彫り、像高30cm足らず・・・なんとも温和で優しい童顔の阿弥陀さん。

南北朝期の造立。

撮影2011.11.3


豊能町 大円下所(おおまるしもんじょ)阿弥陀磨崖仏

2013年03月23日 | 石仏:大阪

前回、この地を訪れた際にも探してみたのですが、結局訊ねる人さえ見つからず諦めた石仏さん。

今回は石友さんの案内で難なく出逢えましたが・・・・、とても何の手掛かり無しでは滅多に見つからないような場所でした。

この辺りには往古長安寺という寺が有ったらしくこの磨崖石仏も「長安寺跡阿弥陀石仏」とも呼ばれているが、今は昔、現在放ったらかしの竹藪に埋もれて居ます。

傍まで行くと説明板は有るのですが県道からの案内板は無く人に聴くより探し様も有りません。

もう獣道に成り果てた旧道の脇、竹藪への落ち込み縁に巨大おにぎりのような大石が突き出し、露頭下部にしっかり存在感の有る阿弥陀石仏が刻まれている。

高さ約2m、幅2.3m、これだけの大きい石に何故か遠慮がちに小さく彫られた阿弥陀坐像。

深く彫り沈めた舟形の中、蓮華座に坐す像高25cmの阿弥陀坐像を厚く刻み出している。

小さいながら彫りは見事で、反花の有る蓮華座、張りのある組膝、弥陀定印を組み、顔容は穏やかながら、力が感じれます。

昼なお暗い竹藪の中、友達にスポットライトを照らして貰いましたが色温度が違いすぎるかなあ・・・

最早忘れ去られてしまった感が拭えない石仏さん。

その形式から南北朝期の造立だとされ、小さいながら中々存在感の有る磨崖石仏です。

撮影2011.11.3


豊能町切畑 大円風上地蔵磨崖石仏

2013年03月22日 | 石仏:大阪

この石仏は全く未知の石仏さん、石友さんの案内無しでは恐らくお目に掛かれなかった小さな磨崖(これを磨崖と呼んで良いのか?)の地蔵さん。

大円集落の北外れ、棚田の奥に溜池があり、その土手沿いにある斜面を登る廃道脇にポツンと置かれた様に立って居ます。

雑木林の斜面は枯葉を積もるに任せ、何処が廃道やら獣道やら・・・・。

突然三角オニギリ石が現れ、その正面に小さく可愛い地蔵さん。

高さ1mばかしの三角石、前には地表から頭を覗かせた丸石が供台の代わりだったのか・・・・。

もう永年誰も訪れないのか何の形跡もなく、忘れ去られたように佇んでいる。

小さな舟形光背の中、蓮華座に立つ定形地蔵は像高約20cmばかり・・・・。

略式化定形化、おまけにミニチュア化の進んだ江戸期の造立か??

こけし地蔵一歩手前の像容ですが、やっぱり通行人の安全を願って刻まれたものでしょうか??

鄙びた山村の鄙びた地蔵さん。

撮影2011.11.3


豊能町切畑 大円下所(しもんじょ)多尊磨崖仏(再UP)

2013年03月21日 | 石仏:大阪

4~5年前にも紹介した事のある切畑大円下所(しもんじょ)多尊磨崖仏。

今回近くまで行ったので再撮したので写真だけでも再UPです・・・・、しかしまあ再撮しても余り芳しく無い画像ですが。

切畑は豊能町北東部、山懐に抱かれたひなびた山里、この地区にも多くの石仏が集まっています。

この多尊磨崖仏のあるところや深い緑が始まる森の入り口近くにあって、木漏れ日がちらつく最悪の撮影条件でした。

ここはまったく日差しの弱く木漏れ日の射さない日に行かなければいい写真など撮れそうにない。 

高さ約2.5m、幅3mの半球形の石英閃緑岩面に舟形光背を有する阿弥陀像と、二十体の合掌坐像仏とその脇に五輪塔を彫ったものですが風化も進み、ちらつく木漏れ日の中ではなかなか見づらい。

天正二年(1574)の紀銘があって、桃山時代の像立。

しかし訪れる人もほとんどないのか岩の上には枯葉が積もり、ほとんど手付かずで忘れ去られているような状態になっています。

しかし野の仏としての鄙び佇まいは捨てがたい物がある。

撮影2011.11.3


箕面市 上止々呂美(かみとどろみ)の石仏

2013年03月20日 | 石仏:大阪

先日紹介の薬師堂多尊石仏より余野川沿いに少し遡った上止々呂美にある一石六地蔵と多尊石仏です。

集落北端の願生寺は新しく整地された墓地と釈迦堂が建つだけの小さな境内。

その墓地入口にコンクリート製の簡素な掛屋が有り、通常の六体地蔵と共に、この地域でよく見かける多尊石仏や一石六地蔵が安置されている。

中央にキメの荒い花崗岩自然石に刻まれた一石六体地蔵、右手には通常の六体地蔵さん。

下方に大きく図案化された線彫り蓮弁が三体づつの地蔵を載せている。

地蔵はそれぞれの蓮座を持ち個性化の乏しい形式化の進んだ像容、像高約25cm、横1列に錫杖持ち立ち並んでいる。

薄肉のためか風化もかなり進んでいます。

一方多尊石仏は最上段に阿弥陀三尊と思われる三体。

下部は三段に区切り六体づつ計18体の合掌立像を刻み出している。

高さ約110cm、像高約20cmにも満たない様な大きさですが、この地域性を良く表して居ます。

天正十三年(1586)四月廿八日 「逆修衆」の銘が確認され安土桃山時代戦乱期の造立。

撮影2011.11.3


箕面市 下止々呂美(しもとどろみ) 薬師堂多尊石仏/他

2013年03月19日 | 石仏:大阪

能勢の近く豊能町南端と境界を接する箕面市「下止々呂美(しもとどろみ)」の薬師堂境内に有る多尊石仏と地蔵さん。

「止々呂美」と書いて「とどろみ」と読ませる難解地名ですが・・・・轟(とどろき)が訛って「とどろみ」漢字は後々当てはめられた様ですが・・・、所謂轟く谷川淵に出来た集落のようです。

大阪池田方面から京都亀岡方面に抜ける国道423号線は箕面市西端をかすめて流れる余野川に沿うように緑濃い谷間を縫うように遡って行く。

谷間に少し拓けた下止々呂美集落、国道沿いの左手際、小高くなった山裾に薬師堂が建ち、その狭い境内、民家風情の戸口の前に質素な覆屋が在る。

覆屋内には多くの石造物が集められて賑やか。

中央には直ぐそば、豊能地域に多い多尊石仏・・・・高さ1mばかりの舟形花崗岩を三段に分け・・・・、

上部に中尊が大きめの三尊、その下に六尊、最下段にも同じく六尊。

小さいのは殆ど目鼻立ちも怪しい「こけし」状態・・・、それでもローカル色豊かな素朴が嬉しい。

傍らの地蔵尊?長い数珠を合掌した手に掛け、垂らしています。

撮影2011.11.3


豊能町 吉川高代寺 地蔵石仏と一石六体地蔵石仏

2013年03月18日 | 石仏:大阪

豊能町、高代寺への旧参道脇、野の仏としては申し分のない景観の中、地蔵石仏と一石六地蔵石仏が在る。

 北摂山間部の谷間に拓けた豊能郡、能勢町と豊能町は鄙びた景観を今に残す大阪の奥座敷。

そんな豊能町能勢電鉄終着駅の妙見口は、吉川集落への入口でも有り、妙見山への登山口であると共に、高代寺への旧参道への集落。

集落の中程、西側山手に登る高代寺への参道は棚田の脇を抜け、ハイキングや写生に訪れる人も居るほどの景観。

野道山道を辿ること20分ばかり・・・、程よい登りだと思いかけた頃、右手斜面に石積み基壇の上、地蔵石仏が立っている。

高さ1mばかりの花崗岩自然石に深く舟形を彫り沈め、

中に中肉の定形地蔵立像を刻み出している。

単純素朴な像容・・・・石仏としての価値は薄いだろうが?石仏好きにはたまらない風情の中にある。

地蔵の先、少し進むと六体地蔵。

高代寺大墓への入口を示す六体地蔵だと言われている。

高代寺は弘法大師が開闢、霊域が紀州「高野山」に似ており、高野山に代わる寺として名付けられたという由緒正しき古刹。

往時、「源満仲公」の信仰により隆盛を見たようだが・・・、今では鄙びた山寺に成っている。

台形自然石の上部に横長枠を残して彫り沈め、六体地蔵を薄肉で刻み出す。

所謂一石六体地蔵・・・・、しかし風化激しく像容も覚束無い。

右端に銘が在り、江戸前期の慶安二年(1649)「玉手喜兵衛」を願主として吉川村の衆生が造立したと有る。

それにしてもこの参道風情にこの六体地蔵はよく似合います。

撮影2011.11.3


能勢町 今西墓地六地蔵板碑と弥陀一尊板碑

2013年03月17日 | 石仏:大阪

何故にこんな山奥に作らなければ成らなかったのだろう?昼なお薄暗い山中杉林の中。

道の駅能勢栗の里方面から北上して来ると能勢の中心辺り、国道173号線栗巣の交差点を左折、程なく見える岐尼(きね)小学校の先、野面道を斜面に登っていくと山道となり歩くこと10分ばかし・・・・・・。

杉林の山腹に説明板が建つ墓地入口に着く。

向かって左手奥には阿弥陀板碑・・・・・、左手脇には単尊地蔵板碑が六体、土中に突き刺す様に並び立っている。

左手、阿弥陀一尊板碑は花崗岩製の総高約1m、幅約25cm、頂部を山形にし、二段の伏刻をいれた額面としている。

額面下には浅い彫りながら定印の阿弥陀坐像を刻み出し、南北朝時代中期の造立。

<向かって右端旗を持つ地蔵>

六地蔵板碑は高さ約1.2m、幅23cm、同じく頂部を山形にし二重刻みを入れる。

「右志者、為法界衆生、奉造立供養之処也、応安二年酉六月廿四日、道智、如心、敬白」の刻銘が有り、南北朝中期の応安二年(1369)の造立。

右から二番目の地蔵・・・六体共に舟形光背の中、蓮華座に立つ像高約20cm

七世の父母のため道智・如心が造立したと刻む。

右から三番目

道智が自身の逆修供養のため造立したと刻まれている。

右より四体目・・・

「右志者為、先考先妣、奉造立供、養之処也、孝子、如心、敬白」と刻まれる。

五体目・・・

亡き両親のため如心が造立したと有る。

左端には宝珠を掲げる地蔵。

「右志者為、如心逆修、奉造立供、養之処也、如心、敬白」と有り、道智・如心という夫婦が、両親や七世先祖、自身の逆修供養のために造立した六地蔵板碑。

応安二年造立は一体一石六地蔵としては最も古いと言われています。

撮影2011.11.3


能勢町 宿野の阿弥陀石仏

2013年03月16日 | 石仏:大阪

なにゆえこんななんでも無い場所にぽつんとこれ程の阿弥陀石仏が祀られて居るのだろうか??ちょっと不思議な感じのする石仏です。

能勢町の役場前を横切り、京都亀岡市のるり渓へ通じる不道54号線、宿野一区、古民家の裏山斜面に簡素な覆い屋を設えられ、野の仏にしては立派すぎる程の定印阿弥陀石仏が祀られている。

しかも単尊一体のみで他にはそれらしきものは何もない。

花崗岩製、総高約1.2m、大きい舟形を負い、蓮華座に結跏趺坐、両手は膝上で弥陀定印を組む。

光背部は少し荒削りながら厚く半肉彫りで刻み出された体躯には力を感じる。

全体に黒い菌類が纏わり付くが、尊顔部は綺麗に取り除かれている。

尊顔は穏やかな笑みを湛え、衆生を静かに見守っている様子・・・・。

大きく張り出した膝や衲衣衣文は、近く月峰寺の六体阿弥陀石仏に酷似しており、それとの関連性を考えずには居られない程酷似して居ます。

月峰寺の六体阿弥陀石仏と同時期の室町中期の造立。

景観としては申し分ないのですが何故こんな場所で一人ぼちなんでしょうか??

撮影2011.11.3


能勢町 行者山の不動明王磨崖仏

2013年03月15日 | 石仏:大阪

正直なところ写真がまずいのか、どうも判り辛いと言うのが本音。

浅い線彫りの上、刻まれて居る岩がきめ荒く、あちこちでひび割れ、遠目には正直何が何やらでした。

細かく丁寧に彫っている分余計に見づらく成って居る様な??。

行者山への登山道へ入らず、そのまま道成に谷川沿いを奥へ詰めれば、河原に烏帽子岩と呼ばれる大岩が在り、不動明王磨崖仏が彫られています。

岩の正面には柴灯護摩(さいとうごま)の跡が有り、現在も行事は続けられ不動信仰の篤い事が窺われる。

高さ5~6mも有ろうかと言う赤っぽい大岩の中央・・・・・

火焔を背負う像高約2mの不動明王坐像が細い線彫りで刻まれている。

頭上には不動明王の種子カーンの文字。

こちら前の大日如来とは違ってかなり手馴れた像容ですが・・・、同じ江戸時代中期の造立。

この磨崖仏より渓流を渡った対岸には何故か弁財天磨崖仏。

ここまで辿り着くにはそれなりの根性が必要・・。

その分優しい笑顔で迎えてくれましたが・・・、享保八年(1723)の造立だとか。

撮影2011.11.3


能勢町 行者山役行者磨崖仏

2013年03月14日 | 石仏:大阪

前回の大日岩から更に暫く登ると弥勒岩と呼ばれる、斜面から落ないことが不思議な程オーバーハングした巨岩が有る。

オーバーハングの庇の下、岩屋には小さな石祠が有りやっぱり小さな弥勒菩薩が祀られて居るが問題外。

壁面を探してもこの岩には全く磨崖の類は見つかりません。

行者堂の脇をすり抜けテラス状に成った鐘掛け岩の壁面に覆屋が掛けられ、その奥の壁面に「役行者」像が刻まれている。

像高約1.2m、荒げた岩肌に浅いレリーフ、外光の届かない覆い屋の奥・・・・、顔の部分にスポットを当てて貰っての撮影。

看板には、奈良時代、役行者が爪で自らの像を彫り刻んだと書かれている磨崖仏??・・・・それは全く信じられませんが。

石仏としての価値は決して高く無い近世像・・、どう見てもアンバランス、多分これも素人彫りの様な・・・。

撮影2011.11.3


能勢町 行者山大日如来磨崖仏

2013年03月13日 | 石仏:大阪

能勢中央部?、栗巣辺りから丹波篠山(篠山市)に抜ける国道173号線、その右側に信仰の山「剣尾山」へと続く行者山が有り、山道には磨崖石仏が有る。

行者山へは栗巣の信号から車で5分、玉泉寺への看板の上がる辻を右折、道成にしばらく進めば行者山への登山口に着く。

行者山は麓の玉泉寺「宝雲上人」が江戸中期の正徳2年(1712)修験道の修行場として開いたと言われ、北摂の大峰山とも言われている。

そんな登山道には休みともなると、カラフルなヤマガールが押し寄せる人気のハイキング道

初老に辛い山歩き、喘ぎながら登ること20分ばかしか?、前方に見上げる程の巨岩が覆いかぶさる様に山道に突き出している。

大日岩と呼ばれる巨岩の脇を、ハイカーは事も無げにすり抜けて行く・・・・。

広い岩肌三分の一程に大きな磨崖石仏が刻まれている。

一目見た時、地蔵坐像かと???これが大日・・・・、どうも大日にしては物足りなさ過ぎる感じ。

江戸中期以降の造立か?、像高約2.5m・・・、蓮華座の上に座し胎蔵界定印を結ぶ大日如来坐像です。

体部は拙い線彫り、顔頭部は浅いレリーフ、顔容もぎこちなく素人彫りのような・・。

頭部宝冠、中央にはバン(金剛界大日)、向かって右にキリーク(阿弥陀)、左にはアーンク(胎蔵界大日)を刻み珍しい。

朱や墨の彩色痕も残るが、却ってそれが余計にこの磨崖を拙く見せているのかも知れない。

しかし大阪では数少ない大磨崖仏であることには違い無い。

撮影2011.11.3


能勢町野間大原 興徳寺の三尊石仏

2013年03月12日 | 石仏:大阪

大阪、北摂の山間部能勢町は兵庫県篠山市や京都府亀岡市と県府境を接する鄙びた田舎町。

西日本最大の巨木だと言われる「野間の大けやき」の近く、野間大原集落の高台に建つ興徳寺に珍しい三尊石仏が有る。

鄙びた能勢の山里らしく、茅葺き屋根に黒塗りトタンを懸けた風情ある本堂・・・

境内脇から左手、墓地入口に切石基壇を設けて古めかしい石造物がずらりと一列に並び立てられて居る。

ずんぐりむっくりの古びた宝篋印塔もさることながら、中央に有る背の高い自然石に刻まれた三尊石仏に目を奪われる。

高さ約2.3m、花崗岩自然石の丈夫に大きく舟形を彫り沈め、中に二重蓮座に立つ地蔵菩薩、下方には同じく舟形の中、半身程の不動明王(右)と毘沙門天(左)の三尊を刻んでいる。

地蔵の像高約50cm、舟形内に「天文廿四年乙卯本願宗燐」「十月吉日」銘文があり、室町後期 天文二十四年(1555)の造立。

左傍らにはこんな阿弥陀三尊石仏。

花崗岩舟形石の総高約1.2mに、中尊約70cmの阿弥陀如来立像。

室町後期の永禄十一年(1568)、逆修供養として造立された。

鄙びた山里には鄙びた石仏。

撮影2011.11.3


寝屋川市 明光寺(みょうこうじ)十三仏板碑/他

2012年11月22日 | 石仏:大阪

寝屋川では最古の紀年名を持つ十三仏板碑が明光寺にある。

寝屋川市最南東部、四條畷市と交野市に囲まれた山裾斜面、新旧混在の住宅街最上部に建つ。

住宅街は余所者を拒むように細い道が入り組み、解りづらいが車でも到達出来る。

本堂に向かって右手、境内境内片隅に基壇を設え、植え込みに隠れる様に十三仏板碑と両側に方形石の双体仏が置かれて居る。

上部を膨らませた舟形に整形した花崗岩表面に枠を取り、蓮華座に坐す三列四段の十二尊と上部中央にお決まりの虚空蔵菩薩。

天蓋は肉付きで刻み出され立派ですが、コケやカビが付着して変色が有り、見辛く成って居ます。

高さ120cm、最大幅65cm、枠外最下部に「三界万霊」と多数の法名、室町後期、弘治三年(1557)の紀年名を刻む。

向かって左隣に置かれて居た高さ約50cm、方形板石の双体地蔵?。

向かって右側は、植え込みが邪魔で写真は有りませんが同じく阿弥陀?の双体仏の様に見えました。

撮影2012.11.21