独高級紙FAZの署名つき記事は、大変刺激的であった。ヨハン・パウロ二世の資本主義への挑戦を評価している。これは、EUのグローバリズムへの基本理念となるようなもので興味深い。ここでは彼が哲学、人類、人道神学教授として著した書物などを扱う。それらは、法王としては100年ぶりに著した経済書でもあったようだ。
自由資本主義と階級闘争の神学の狭間で戦う法王として、その思想と政策が紹介されている。つまり、ポーランド人としての故郷でのマルキズムスとの闘争、そしてそのイデオロギーからの東欧開放を経て、自由資本主義へと矛先が向った事が記される。
「純粋な利の追求は、経済の最高目標ではない。それは、人類の真の需要に向けられるべきである。- 人の営みにおける経済秩序の最優先は、社会的公平を保障しない。それどころか公共福祉の真の等級付けによって得られる人の自由をも保障しない。」。
これは、アダム・スミスによる個人の生産による富の蓄積や経済成長への自由競争は強欲や奪略を生み、人類の精神の本分や、超越的なものや恒常性に寄与しないという見解である。これを示すために、多くの新旧訳聖書の例が挙げられている。「黄金の子牛の踊り」(出エジプト記/モーゼの書二巻、32.7-32.14)他「金持ちとラザロス」(ルカスによる福音16.19)、「重ねて言っておくが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」(マタイオスによる福音19.24)などである。
つまり、其々の 全 く 同 じ で な い 社会的公平の尊重が最重要課題として、それは同一の社会においてまたは南北問題へとも導かれる。其々の富の所有は連帯のもとに、キリスト教的同情、哀れみをもって社会へと他者へと差し出されるものであるという。このような慈悲の美徳は、「善いサマリア人」(ルカスによる福音10.25-10.37)に書いてある通りである。
そして南アメリカでの実際に触れる。1979年の南米訪問とそこでの会議で、「開放へのために」マルキストと協調していた修道会や会派、人物などを「君たちは政治的指導者ではない。」と諌めた。階級闘争と開放への神学を進めていた一部の宗教会がセクト化して分裂し、当地の教会が現実の人々の生活を脅かそうとしていたのを、こうして防ぐ事が出来たという。
南アメリカ大陸への硬直した学問的援助については嘗て批判したが、このように西欧や東欧とは違う方法で対処していく事が肝要なのである。また目を欧州大陸に戻して世界を眺望すれば、EUの進む方向が分かる。東欧の新EU加盟国などは、自由市場競争では将来が無い事は明らかである。つまりこれらの採決権を持つ諸国が独仏を中心に反完全自由主義経済を旗印に理想世界を求めて行くのだろう。こうして次期法王には欧州以外の特にアメリカ大陸の人材が強く請われている。
「経済のために人があるのではなくて、人のために経済がある。」とヨハン・パウロ二世は語っている。
参照:グローバリズムの領域侵犯の危険 [ 歴史・時事 ] / 2004-12-10
自由資本主義と階級闘争の神学の狭間で戦う法王として、その思想と政策が紹介されている。つまり、ポーランド人としての故郷でのマルキズムスとの闘争、そしてそのイデオロギーからの東欧開放を経て、自由資本主義へと矛先が向った事が記される。
「純粋な利の追求は、経済の最高目標ではない。それは、人類の真の需要に向けられるべきである。- 人の営みにおける経済秩序の最優先は、社会的公平を保障しない。それどころか公共福祉の真の等級付けによって得られる人の自由をも保障しない。」。
これは、アダム・スミスによる個人の生産による富の蓄積や経済成長への自由競争は強欲や奪略を生み、人類の精神の本分や、超越的なものや恒常性に寄与しないという見解である。これを示すために、多くの新旧訳聖書の例が挙げられている。「黄金の子牛の踊り」(出エジプト記/モーゼの書二巻、32.7-32.14)他「金持ちとラザロス」(ルカスによる福音16.19)、「重ねて言っておくが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」(マタイオスによる福音19.24)などである。
つまり、其々の 全 く 同 じ で な い 社会的公平の尊重が最重要課題として、それは同一の社会においてまたは南北問題へとも導かれる。其々の富の所有は連帯のもとに、キリスト教的同情、哀れみをもって社会へと他者へと差し出されるものであるという。このような慈悲の美徳は、「善いサマリア人」(ルカスによる福音10.25-10.37)に書いてある通りである。
そして南アメリカでの実際に触れる。1979年の南米訪問とそこでの会議で、「開放へのために」マルキストと協調していた修道会や会派、人物などを「君たちは政治的指導者ではない。」と諌めた。階級闘争と開放への神学を進めていた一部の宗教会がセクト化して分裂し、当地の教会が現実の人々の生活を脅かそうとしていたのを、こうして防ぐ事が出来たという。
南アメリカ大陸への硬直した学問的援助については嘗て批判したが、このように西欧や東欧とは違う方法で対処していく事が肝要なのである。また目を欧州大陸に戻して世界を眺望すれば、EUの進む方向が分かる。東欧の新EU加盟国などは、自由市場競争では将来が無い事は明らかである。つまりこれらの採決権を持つ諸国が独仏を中心に反完全自由主義経済を旗印に理想世界を求めて行くのだろう。こうして次期法王には欧州以外の特にアメリカ大陸の人材が強く請われている。
「経済のために人があるのではなくて、人のために経済がある。」とヨハン・パウロ二世は語っている。
参照:グローバリズムの領域侵犯の危険 [ 歴史・時事 ] / 2004-12-10
仰るようにカトリック信仰は、ドイツ社会の中では日陰といいますか、エリート層での比率は低くなります。由ってこの新聞でも、今回比較的冷めて客観的な報道が多い中で最終頁の目立つ位置にこの記事が掲載されています。
その突き放した視点がより一層その本質に迫ったといえるでしょうか。旧約の「黄金の子牛」の件は出来れば改めて取上げたいと思います。面白いですね。
leprechaunさん、コメント有難うございます。イロニーに満ちたお話からお考えの違いは多少分かっております。敢えて、この件に関して付け加えると、「左翼の法王は全てのイデオロギー対して否定的」というのが新聞記事の筆者の論調です。そしてこの宗教者の著作の聖書に戻る引用を只のモラルと解釈するかどうかですね。明白なヴィジョンが無いと方向も定まらないのでは?混沌とした不安の中にも希望が無いと。
プロテスタントの国から見たカトリック評価、というのも非常に興味深く読ませて頂きました。聖書に触れつつ経済を語るという視点も、聖書に対する造詣がなければできませんし。
こういう視点、カトリックの国(仏)でむしろ欠けているように思われます(短い私の滞仏経験から見るに)。やはり、カトリックは道徳の権化、という感じでしょうか。