Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

二元論の往きつく所

2006-04-16 | 文学・思想
最近巷で話題のユダの福音書についての記事を読む。ハイデルベルクの宗教学教授の書いたものである。それ以前にカトリック教会のサイトを見て、この福音書が二世紀の異端グノシス教会の教え其の侭であると知って、宗教的影響の微々たる事も判った。グノシスについては、過激な二元論を展開して、キリスト教を超える宗教として知られている。しかし、今回の編集者はキリスト教に仏教の教えを見ようとしていると言うのである。

先日から見聞きして、座禅を組む若いカトリック教徒のある種の異常さやアニメに於ける善悪(白黒)の二元論への「陽の沈む世界」での抵抗無い受容に気が付いている。話をひろげれば、花火の意匠や非宗教的な、特にゲルマンの伝統行事にまでその連関は往きつく。

その二元論の強力な影響力は宗教的に本質的なものであり、だからこそ「薔薇の名前」や「ダヴィンチ・コード」でも最も興味のある対象となるのであろう。これを商売のネタとカトリック教会が突っぱねるのも分かる様な気がする。

しかしここでクラウス・ベルガー教授は、こうした「流行の現象」は、カトリック教会内にある原理主義的な宗教を正す為に価値があるのだとする。妄信的な宗教感こそがこうしたグノシス的異端へと導くと言う。

「陽の当たる所に影が生ずる」や「陰陽」などの東洋的な真実は、直感的に宇宙の調和を捉える物理でもあり誰にでも馴染み易い。だからこそまだ他の福音書の編集も完成していない時期に「ユダの福音書」は、大変危険な教義であったのは容易に想像出来る。初期のキリスト教会が、五世紀まで生きながらえたグノシスを異端と見做すのも、賢明な政策に違いなかった。万が一、これらの二元論が欧州に蔓延っていたとすると、東西文化の対も一元化してしまい存在しなかったのであろう。暗黒の世界である。

正餐の儀式についても、今回の福音書からすると全く違う意味になってしまう様で、思わず笑ってしまう。そして、孤独な二元論の往きつく所が示される。



参照:
コールタールピッチ [ 歴史・時事 ] / 2004-12-29
来たれ、創造主なる聖霊よ [ 生活・暦 ] / 2005-05-15
充血腸詰めがつるっと [ 料理 ] / 2006-02-16
踏み付けられた巨人 [ 歴史・時事 ] / 2005-07-08
アレマン地方のカーニヴァル [ 生活・暦 ] / 2005-02-07
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
資本主義再考-モーゼとアロン(3)[ 歴史・時事 ] / 2005-05-04
原理主義のアンチテーゼ [ 文化一般 ] / 2005-09-25
ライク・ノー・アザー [ 文化一般 ] / 2006-04-05

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10 コメント

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ユダの福音書 (湖南)
2006-04-16 16:52:20
こんにちは



確かに、グノーシス的なものは、これまでの時代は異端として扱った方が良かったけれど、今ならば、その自我と理性によりグノーシスでも十分に行けると、私は考えてはいますが、そこのところきちんとした説明をしないと、グルーシスは、単に現実離れした、受け入れがたい考え方に止まってしまうのでしょうね。



まず明日のパンを思い煩う自分から悩みが始まることに、2000年前も今も変わりはないですから。
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なにかの糸口? (pfaelzerwein)
2006-04-16 18:05:15
湖南さん、ご無沙汰です。



「自我と理性」の精神世界と云う点では、仰る通りと思います。ただ、上の記事でもこうした傾向は「歴史の中で何度も芽生えてかつ直ぐに消滅してしまう」ので、トレンドの内に正体を捕まえて措かないといけないと云う意見です。それと、両方を踏まえて進めて往くと独我論に陥り廉いと云うキリスト教的な見解です。



宗教として、若しくは歴史として捉えると、結論は簡単に下されてしまうのかもしれません。しかしここでも往ったり来たりとふらふらしているように、精神文化として見ると、同じように繰り返されているとしても、なにかの糸口にはなっていると思います。



その辺りの意味合いなども、ご見解共々また勉強させて頂きます。
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坐禅を組むカトリック信徒 (jyakuzuregawa)
2006-04-18 16:36:46
pfaelzerweinさん、こんにちは。

あなたは「坐禅を組む若いカトリック信徒」について、どこで知りましたか?よろしければ教えてください。

私がついて勉強している教会の司祭は、ある修道会の司祭です。彼は20年以上日本で司祭をしていて、日本文化も詳しいのですが、彼からはカトリックと坐禅の融合は聞いたことがありません。

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カトリック教会の禅瞑想 (pfaelzerwein)
2006-04-18 18:52:50
復活祭おめでとうございました。



さて、禅ですが、一般の瞑想として夜中に流れるようなTV番組として社会に定着した形態と、坐禅の師範がヨガ共々教える形態、更に禅宗や道教の流れを組む形態と三種類あります。



どれも様々なあらゆる宗教活動に関わっていたり、一般の精神文化活動と関わっています。ドイツのローマン・カトリック教会では、四半世紀ほど前からシュトッツガルトで始まった、禅瞑想が最も有名です。上述の第二の形態です。念のためにネットで調べましたら、現在の師範もベネディクト会の修道女で、教会の活動として執り行われているようです。



特にカトリック青年の会の熱心で行動的な信者の多くが禅黙想に関わっている事は重要です。信仰と黙想と覚醒が切っても切り離せないものなので、これを直接宗教原理主義とは思いません。しかしそういった孤高な態度が狂信化しかねないと言うのが旨です。



先日も金沢に行ったエンジニアが言うには、多くの熱心な信者が禅寺で座禅を組んでいます。彼に言わせると「一寸おかしい」らしいのですが、これは新教徒からの視点でしょう。ただ、少なくともドイツ語圏ではキリスト教への仏教の影響は誰もが認めるところです。
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ありがとうございました (jyakuzuregawa)
2006-04-21 15:45:10
pfaelzerweinさん、説明をありがとうございました。

ベネディクト会といえば、観想修道会ですよね。瞑想と黙想は合うのでしょうか。



わたしも少しネットで調べました。調べた限りですが、日本では第2バチカン公会議後から、臨済宗や曹洞宗といった禅宗と、カトリックの修道院が交流を始めたのがはじまりのようでした。

カトリックの信者が禅宗のお寺へ行って、僧侶の指導のもとで坐禅を組んでいたり、教会の部屋で坐禅を組んだりしているようです。

 カトリックの黙想で神と一致するような感覚が、坐禅で得られる感覚と合うから坐禅が広がったのかもしれません。

しかし、もし神との一致した感覚が坐禅でしか得られないとしたら、カトリックに伝わる黙想は、あまり意味がなくなってしまうと思いました。

そしてカトリックで真に「坐禅」を取り入れるのなら、聖堂(礼拝堂)にござを敷いてするのだろうか?などと考えてしまいました。

 
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普遍的な宗教感 (pfaelzerwein)
2006-04-21 18:04:51
こちらこそ、追加説明ありがとうございました。宗教的な見解を越えて文化的な文脈でも興味あるお話です。



私自身は曹洞宗との繋がりは強くはないのですが、子供時分の永平寺等の訪問は今でも印象にあります。二十世紀以降の近代では、鈴木大拙の業績を待つまでも無く、禅の教えは重要な意味をもっています。



http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/daisetsu_guidance.html



こうした時代の重要な精神文化を受容する事が普遍的な宗教感を保つには必要不可欠なのでしょう。



何はともあれ、疑問が解けて良かったです。
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ユダの福音書 (力石)
2006-04-22 10:08:53
はじめまして。私はグノーシスよりもイスラエルとパレスチナ。或いはキリスト教とイスラム教という陰陽関係の内に考察を進めるべきだ思います。
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おかしな考え方 (pfaelzerwein)
2006-04-22 15:59:07
力石さん、はじめまして。コメント有り難うございます。



イスラエルとパレスチナは本旨でありませんので触れませんが、示唆するところのキリスト教とイスラム教の関係はユダヤ教と共にグノシスとの関係は深いようです。そこでは、ユダの密告が神の真髄であるイエスがその表層的な肉体的表出から解放される過程となりますので、コーランにあるように「イエスの死」は「他者の死」となるようです。



もともと、キリスト教・ユダヤ教とイスラム教の関係は陰陽の互いに補う関係にはない訳ですが、グノシスの考え方にはそれらをも包み込むような原理があるようです。



更に違う視点から見ますと、上のリンクにあるような鈴木大拙の「西洋の方と比べてみるというと、どうしても、西洋にいいところは、いくらでもあると……いくらでもあって、日本はそいつを取り入れにゃならんが、日本は日本として、或は東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもあると」は陰陽的な閉じた考え方と思うのですが、現代の社会や世界を見ている我々からすると大変おかしな考え方に違いありません。



二元論的な考え方は都合良く把握出来たような気になりますが、往々にして何一つ見ていないと云う事にもなりかねません。
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Unknown (力石)
2006-04-23 18:13:43
ツェランの詩がでましたがドイツ実存主義系の思弁のほうも往々にして何一つ見えていないという事もある気がしております。



2元的地平は論ではなく世界把握のためのポエトレイションですし。

浅学です、失礼しました。
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二元論の定義 (pfaelzerwein)
2006-04-23 19:23:19
「二元的地平」と云うのが今ひとつ分からないのですが、上の東西分化の説明にあたるのでしょうか。



「世界把握のためのポエトレイション」もツェラァンを指しているのかもしれませんが、該当記事では一切、詩の解釈には触れていません。読者の想像力に任せた記事の書き方に問題もあるかもしれませんので、考慮させて頂きます。



只、本文の二元論としているのは神学上の解釈です。もし、全体の文脈で問題を指摘するならば、二元論の定義にあるのではないかと思われます。
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