Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

失敗を演出する制作意図

2022-09-22 | 文化一般
承前)チューリッヒの老舗高級紙が「魔弾の射手」の初日について書いている。二日目公演があったのでそれまでに一通り出たのだろう。チューリッヒの新聞がオペラについて書くとなれば勿論地元のそれが基準で、必要な対照はミュンヘンやシュトッツガルトに取られているのだろう。

見出しに、マルターラはヴェーバーの人気狩人オペラでの失敗を演出して、それがこの世紀の作品の制作をとてもワクワクするものにしたと掲げた。それによってなにが得られたか。よりヴェーバーの音楽の歴史的な価値とその内容の本質だとなる。こうした公的な劇場での古い作品の上演の目的は、それに態々接してメルヘンの世界を垣間見ることなどではないのである。

先ず音楽的には奈落の床をリフトアップして ― エンゲルの奈落入りはその頭しか見えずに拍手を拒否していたのだが ー、序曲で上がり終わると元へ戻る。その頂点は「狩人の歌」であった筈だ、そこで聴衆にその価値へとまたは非価値へと意識を喚起すると書く。まさしくその非価値が「狩人の歌」にあって、そこがこの制作のフィナーレにまで付き纏われて大ギャクの契機を与えていた。

次にリフトアップされた時こそがまさしく「狩人の歌」の場面で、舞台上の合唱団はブロイライの椅子に座ったままである。その一方上がってきた楽団員は最前列にエンゲルが客席を向いて皆がビアマグに歌を吹き込んでもごもごと「狩人の歌」を歌っている。これだけで完全に「ドリフの全員集合」のギャグなのだが、この風刺は誰にでも利くがこの制作の基本コンセプトを如実に表している。

同様のギャグは、後ろの合唱団が舞台中舞台で歌ってそこの幕が閉められてからの最初のブロイライのシーンから利いていて、花嫁花婿候補は別れて一人づつのテーブルについていて、年増のアガーテの女友達が不吉な前兆を演じて、壁に掛かった額を掛け直しても繰り返し繰り返し大きな音を立てて落ちてしまうのをまた掛け直しに行くというものだ ― ヴェーバーの音楽が台詞に遮られて数分も続かないことをパロディー化もしている。

この繰り返しがそれはギャグの基本だけで終わってしまうと惜しい。なぜならば、その繰り返しこそが、継がれるヴァ―クナーの作品としてライトモティーフとして使われる構造の起源だからである。他紙も書くようにマルタ―ラーの演出が脱構造化だとすれば、この新聞に書かれるようにその影響は浪漫派オペラとしてのヴァ―クナーだけでなくベルク、そして現在の映画音楽にもなくてはならない表現方法の創造者であったとなり、それらをも脱構造化しているのかもしれない。

具体的には、少なくとも現在の我々にとっては最早根源的な恐怖心を不合理を悪夢を反映した音楽的原型がどのように聴こえるかという問いかけでもある。1821年に初演された時の同時代の音楽はベートーヴェン作「ミサソレムニス」であったと注意を促している。

比較すべき跳躍が見られるのは「トリスタン」の野の半音階であり、「春の祭典」であり、シェーンベルク作第二四重奏曲のシュテファン・ゲオルゲ「他所の宇宙からの空気を感じる」の和声からの解放の時であるとしている。(続く



参照:
何時の間にドイツの森に 2022-09-15 | 文化一般
魔弾の射手から守護者へ 2022-09-11 | 文化一般

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